タレメーノ・カクの高校留年白書

高校ダブったらこうなるぞ!!

いま、留年の渦中にいる君たちはどう生きるか

 当事者以外のだれもが、君の留年に興味を持っていない。クラスメイトも、元同級生も、親も、先生も。気にかけてくれる人の好意は素直に受け止めつつも、そこはやはり、自分の問題、自分だけしか取り組めない自分だけの問題。だれも君と同じようには考えてくれないし、感じることはない。

 

 ぼくは留年を乗り越えて高校を卒業した時、もうこれ以上のことはないな、なにかあってもこの高校時代を思い出せばなんだってできるにちがいない。とそう思ったのだけれど、なかなかどうして困難はやってくる(困難と捉えるか否かもポイントだね)。

 

 でも、俺ならできる。俺ならできる。って、どこかで踏ん張れるんだ。やはり留年で鍛えられた足腰はダテじゃないのよ。挫折しまくりのアラサーな今のぼくも、まだまだそれに支えらています。

 

 どうか、君オリジナルのやり方で乗り越えてください。

 どうか、それは自分で考えてください。

 

 ぼくも、他人事を他人事と思えないことには、これから向かっていきたいと思います。

 

 君の留年の辛さや道程は、ぼくの問題でもある。

 

 笑って生きようじゃないか。

卒業

 

 卒業が見えてくるころにはある種の自信が芽生えるのではないだろうか。

 留年してもその学校を四年で卒業するなんて技は、だれにでもできるものではないと思う。手前味噌であるし、嫌味でもあるだろうし、自惚れでもいいのだが、ぼくは辞めずに卒業した。

 辞めても人それぞれだし、それこそ良し悪しはない。が、卒業の事実はすごいことだと思っている。と同時にアホだとも。自己否定ではない。むしろ、肯定している。だから、愛を込めてアホと称えたい。だって、三年で卒業するほうが楽なのだから。なにが嬉しくて四年も通う。

 では、なぜ自信が、という話だけれど。

 卒業する時にぼくが感じたのは、

 『向後の人生においてこんなにしんどい思いをすることはないだろう、あったとしても、この四年間を思い出せば必ず乗り越えられるはずだ』

 こんな月桂冠を自らの頭に乗せるような肯定感と達成感あるいは充足感ともいえるだろうか。因があっての結果。自信が芽生える。

 とはいえ、留年しているのだから、ちょっと照れくさいやら、恥ずかしいやらで、舌のひとつも出したくはなる。そしたら出してみよう。みんな喜ぶ。

 

 ぼくは十八歳の高二の冬に年下クラスメイトを誘ってお笑いコンビを結成し、高校最後の一年は某芸能事務所の養成所に通いながら卒業までの日々を経てた。

 クラスのみんな、先生方、学校全体に応援していただき卒業の一ヶ月後、地元でデビューしプロとして芸能活動をはじめた。

 その年、母校から文化祭に呼ばれ、校内お笑いコンテストの司会と漫才の出番をいただき、まさかの額の低さに驚愕しつつも、ギャラをもらい仕事をした。

 

 行きたくもない高校に入学して、留年して、卒業して、芸人になって、こんなことになるなんて、夢にも思わなかったのだから、人生とはなんてへんてこりん。

 

 紆余曲折。東京で彼とはお別れになったのだけれど、ぼくの人生において彼との出会い、彼と共に夢を見られたこと、叶えられたこと、破れたこと、いまでも財産として大事にしまっている。

 彼のことだけではない。三十を超えたいまでも大切に思う人たちに、高校、留年のおかげで巡り会っている。

 

 退学しても出会いはある。

 編入しても出会いはある。

 つづけても、出会いはある。

 人だけではないね、物もそう、情報もそう。良し悪しなどは、はなからない。

 

 卒業するのも、これ一興。ただそれだけの話。 

 

 

 

 

留年と音楽

 留年していると、ダサい音楽は聴けない。

 まず、なにをもってダサいとするか、そもそも音楽にダサさなどあるのか、この問いに関しては真面目に考えないでほしい。

 「好きなの聴けばいいじゃん」そんなことはわかっています。

 「まあ、いいたいことはわかるけど」ぐらいの感覚を、了承願いたいところである。

 

 留年生活を送る人間にとって、イヤホンとは親友である。それはちょうど、ネロにとってのパトラッシュみたいなもの。生き死にに関わる重要な存在。それは騒音から心身を守ってくれる役割があるのはもちろんで、まあしばらくはそれを最大の目的とし使用することになる。音を楽しむなんて、そんな余裕は留年直後にはない。

 

 「◯◯さん、なに聴くんですか?」

 

 年下クラスメイトと打ち解けはじめたころ、こういう質問を受けることになる。ここから打ち解けはじめる、といってもいい。高校生にとって音楽の話は、エロ話にも勝るとも劣らないパワーがある。

 ぼくがその当事者であった年代は、2002年前後。ヒップホップやパンク、ラウドなどといわれる音楽がかっこよかった。

 ハイスタ、ゴイステ、KEMURIキングギドラ等。これらのアーティストは有名であったから、それらを聴いていたところで特別にオシャレというわけではなかったが、やっぱり押さえておきたい、だれだって、という具合のもの。

 だから、もうひとつ自分を演出するのなら洋楽が好ましいね。まだだれも知らないようなバンド、あるいは、だれかでも知っているようなグラミー賞歌手の曲など。そこいきますか、なんですかそれ、ぐらいがいい。雰囲気が出る。

 先週Mステ観たあとすぐCD借りに行ったでしょうと、MDプレイヤーのラベルに恥ずかしげもなく曲のタイトルなんかが書かれてあると、きっと年下たちもやるせない。『ダブり』は、イケててほしい。人生の先輩にオレらの知らないことを教えて欲しい。

 

 とはいえ、時代がある。

 いまはアイドルが好きだということを隠さなくていいし、ぼくだって、当時がいまのような音楽シーンであれば、「チェキっ娘聴いてるよ。推しメン? 下川みくにだよ」なんていったかもしれない。

 とはいえ、とはいえだ。

 留年した心を癒してくれるのは、アイドルでない気もする。癒してくれるのは忌野清志郎かもしれない。チバユウスケかもしれない。留年とはロックであり、ブルースであるから……。なんてキザなことをいいやがるとの評をいまこの瞬間、ぼくはいただいていることであろうと察しはつくけれど、やはり留年は踊ったり飛んだり、みんなでワイワイするものでもないから、詩人になるもの自然なことかなと思う。その『ダブり』がひょうきんであることを選んだ、としてもだ。顔で笑って背中でナントカだ。

 ダサい音楽は、その後卒業するまでの道に悪影響を及ぼす可能性をはらんでいる。留年したすべての人間にいえる、卒業するという目標を遂行するための基本理念、

「ナメられないようにする。ナメられたら終わり」

 これをもとに考えれば、自ずから、

 「おお、オレ? △△聴いてるよ。めっちゃいいよ、聴いてみ」

 「◯◯さん、センスいいっすね。へえ〜」

 なんて構図もつくれたりする。

 

  が、演出や理屈など無視して、好きなものを純粋に好きだと胸を張っていえる人が、高校生活が、人生が、好ましいに決まっている。好きな音楽を聴けばよろしい。 

 

 

 

 

 

 

 

 

留年とファッション

 一目も二目も置かれる留年生においてやはりその目は到底数え切れない、天文学的な数の視線の矢を浴びるわけだが、高校留年にまつわるいかなる話にも当事者にとってはこの状況が基本にある。

 では、ファッションを紐解いてみよう。

 ハイスクールに通うわけではないのでファッションもへったくれもないように一見お思いになるかもしない。制服が学ランであれ、ブレザーであれ、どこまでが指定、非指定であっても、趣味が垣間見える瞬間がある。無論、留年していようがしていまいが、ではあるが。

 

 『ダブり』にも様々な事情、おもむきがある。

 病気や怪我、イジメ、進路の悩みで休学していたために、なまけになまけた挙句単位が足りなかった、少年院に入ってた、進学高に入れたものの落伍した、などなど。

 これらの事情にファッションがイコールするか、それはもちろんあくまで個人の「ああ、そういう人ってそういう感じね」の感覚ではあろう。まあ、ヤンキーぐらいにしか、ああとはならないかもしれないが。

 ぼくも青春のテンプレートよろしく、学ランを着ていた頃はひどく自意識過剰にできていたために、二度目の一年生をはじめるにあたって、顔つき、しゃべり方、髪型、そしてファッションには演出を加えたくなった。

 改めて記しておくと、ぼくは不良ではなかった。

 勉強は好きだけど体が、というわけでもなく、勉強のほうは中の下(下の上が正直なところ)、いじめ、これも多分そこまではなかった。

 工業高校に入ったのに、工業の道に進みたくはないと一度目の一年の一学期で強烈に思ったために、退学する予定で休学、留年。結局、復学した。というわけで、不良カルチャーのようにわかりやすい自己表現ができない。糊の効いたカッターシャツを着れば頭脳明晰な雰囲気に、との思考も指定のポロシャツが邪魔をするし、中間考査でボロが出る。そもそもカッターシャツなど持っていない。

 

 靴だ。校則は自由。アディダスのスーパースターを履くのに、この普通感がどうにもひっかかった。

 スネーク柄とか、トリコロールカラーとかであればまだしも、白に黒。新入生の何人がそれを履いてくるかもしれぬ、それももしクラスにいたら、「ダブってる人と、オレ靴同じだ。うわあ、高校生活最先悪すぎ」出鼻を挫いてやりたい趣味はこちらにはない。

 名前も良くない。スーパースター。スタンスミスも持っていたので、こっちならと思うが、それだってやはり多くの人間が履いてくるだろう。色も白に緑のど定番。あだ名も多分、スミスにされる。

 残された選択肢は、ドクターマーチンのエイトホール。色はワインレッド。あだ名はマーチンになるかもしれない。若干、名字にもかかっている。あるいは、安全地帯とか、玉置とか、そっちになるかもしれない。命名の危険度で言えばもっとも高く死の予感がしたけれども、そのブーツのルックスゆえ年下がからかえるような代物ではなし、また、それを学ランと合わせるなんて、いかにも蠱惑的で謎めいて、病弱さもない、不良の血生臭さもない、それでいて近寄りがたいあの人は一体……。——この塩梅がぼくには必要だった。

 で、鞄も指定はなかったからなにがいいかと考えたいものの、ポーターの黒のトートバッグしかない。

 ちょっとアンバランスな気がしないでもないというひっかかりはどうにもならにので諦めた。あとは、ベルトを革の太めのをズボンに通して、手首にはGショック。アンバランスな気がしないでもないのだけれど、当時は足し算ばかりの、これもまた若さゆえ。自分としては装備をなんとか整えた、という具合。精神的な鎧にもなる、いや、するわけだ。

 ママチャリで自転車通学というのがなんともアンバランスを絶頂にさせるが(2000年初頭、高校生の通学にママチャリはトレンドでもあった)。ぼくの場合は、こうして二度目の一年の一学期の始業式へ。

 

 ドクターマーチンは人から買ったものだった。

 その相手とは、ぼくが一度目の一年生の時のクラスにいたひとつ年上の留年生。ぼくが生まれてはじめて見たダブりのうちのひとり。もうひとりもそのクラスにいて、そっちはビーバップとか湘南純愛組の末裔みたいな人だった。

 その不良ではないほうの、常にオーディオテクニカのヘッドフォンを首に巻きつけて、当時主流だったMDプレイヤーではなくCDプレイヤーを操るパンキッシュな頭髪のほうに売買を持ちかけられ、半ば強引ではあったが、双方合意のもとに取引が成立したのだった。まだ知り合って一ヶ月ぐらいでの出来事である。

 この春の売買で、ぼくは留年への道に体を預けてしまったのだろうか。ある意味で留年とはファンタジー。であればそうかもしれない。その一年後に自分が同じブーツを履いて、同じように奇異の目で見られる。二人はぼくが休学するより先に退学した。

 

 これも何度でも言う。最初が肝心だ! あとからいくらでもなるにはなるが、最初がこれからを決めるといっても過言ではないような。なめられたら終わりだから。そういう意味で、ファッションは留年生の力になり得る。足し算に飽きたら、つぎは引き算をすればいい。ただ、留年はファッションではないのであしからず。

 

 

 

 

 

 

留年と通学

 自転車通学だったから、電車やバスなどで学校に通う留年者の心中はぼくにはわかりかねるのだけれど、さぞ、おツラいでしょうとは想像ができる。だって、逃げ場がない。その点、自転車はいい。自由だ。好きな道を通れるし、速度だって自分次第。が、自転車にもそれなりにツラさはあるわけで。

 

 えっちらほっちらと自転車で向かえば、そこに近づくにつれ同じ学校の生徒が道に増えてくる。脇道から、向こうから、あっちから。とにかく、湧いて出てくる。最寄りの交差点に着いたともなれば、全方位に同じ制服。

 そのなかで何年生なのかがわかる印が、自転車の後輪カバーの下に貼らされる、ここの生徒のものですよと示す学校名が略されて印字されたシールだ。学年ごとに色がちがう。体操服のジャージの色や、体育館シューズのサイドのステッチの色、同様。入学するとぼくは緑だった。一年生の時、そのシールが赤いのがいれば、その人は二つ上の三年生。青いのがいれば、ひとつ上の二年生。緑であれば同級生。だった。一年生を二回やると、それは変わる。自分の色は変わらない。赤いのがいれば、新しい同級生。青いのがいれば、ひとつ上の三年生。緑がいれば、同い年の二年生。

  大きな交差点、進行方向の信号に行く手を阻まれたら、そこは留年者にとって視線はりつけ地獄である。

「あいつ学校来てんじゃん」

「あいつ辞めなかったんだ」

「あの人ダブってる人だよな」

「そういうチャリ乗るんだ」等である。

 留年者にとっていかなる場面であれツラい期間というのは、やはり、もとの同級生が卒業してくれるまでの期間であり、新しい同級生となじめない期間。どちらもツラい。そして、重なる。だが、もとの同級生さえいなくなってくれれば、こっちのものともいいたくなる心理状態がやがて訪れ、自然、年下クラスメイトとも笑い話ができるようになる。この二つの勢力に対し、どうか、留年生諸君には負けないでほしい。いや、当然勝ち負けではないから、せいぜい潰されないよう、自分を保ってほしいと願うばかりだ。

 が、通学に関していえば、もうひとつ勢力がある。

 三年生に進級し、卒業も見え、クラスの居心地もいくらか良くなっている頃、奴らは現れる。地元の中学の同級生だ。

 これが実に煩わしい! 早くいえば、マジでウザいのだ。なにも、彼らだって急に現れるわけではない。自分が暮らす同じ町から高校に通っていたのだから。朝家を出れば見かけているし、見かけられてもいる。では、自分が三年になった春から、なにがマジでウザくなるのか。

 奴らは私服で原付に乗りはじめる。仕事着で車を運転しはじめる。この、エンジンがついている側とついていない側の隔たりったら、マジでない。

 「助手席乗ってくか〜」などといわれた日には、わざとぶつかっていくらかもらおうかと考えるほど。

 「原付じゃ運動不足でしょがないよ〜」などといわれた日には、頭部をブロック的なもので殴打しようかと、それを目でちょっと探しだしてしまうほど。 

 「まあさ、大学受験失敗して一浪するのと同じだと考えたら、ダブるなんて大したことないよ。オレだって大学もうすでに留年しそうだし! じゃあね〜!」

 マジでウザい。これが留年者の自転車通学だ。逃げるが勝ち。

 

 

 

 

 

 

 

 

留年と学費

 世の大半の高校生が親の経済によって三年間の門を開け、そして閉めていく。

 親が学費を出すのは当然であって、そこに理由も大義もあったものではない。親には迷惑云々……という家庭の事情もそれぞれだが、払ってもらえるならば払ってもらったほうがいいには決まっている(子供が教育を受けるのに親が迷惑などという感想を持つようであれば、そんな親に払ってもらう必要もない気はするが)。

 

 ぼくが四年かけて卒業した高校は公立高校だった。

 家計の為に進路といえば公立校に限られていたものだから、滑り止めの私立の試験すら申し込めない、一発にすべてを注ぎ込むかのような受験を経験し、それは運良く、推薦入試とかいうので面接と作文で簡単に受かったものの、ここをどうして、留年してしまう。退学しようとして休学するのだ。

 それからまたしても不可解にぼくは復学し卒業を目指す。

 奨学金という制度によって高校に行かせてもらっていた。いまで言う、日本学生支援機構だかなんだか、当時は育英会という名称だったかしらん。

 無論、これは借金だ。返さなければならない。誰が。自分が。すべての行動は自らの意思。ぼくは三年分で済むものをもう一年分、おかわりしたことになる。

 当時、ぼくは考えた。半年間、正式な手続きでもって休学していたのだから、学費は三年と半年分だろうと。当たり前だろうと。甘かった。甘すぎないスイーツが世間を喜ばせる昨今だが、一昔前、あまりにもその考えは甘すぎた。

 

 退学する。ここは俺の行くところじゃない。お残しは許しまへんでといくら言われても中座しようとしたぼくが、結局はお腹パンパンの状態で卒業し、それから何年もきっちり四年分の奨学金の返済に追われることになる。

 いまから数年前に完済した時にはさすがに、俺はアホだ、と思った。三年分で済むものが、四年分になっているのだから。休学の半年分の計算の怪については、問い合わせるような無様な行為もしたくなく。かといって泣き寝入りよろしくの態ではシャクに触るので、払ったるわい! のしをつけて払い込みしたるわい! といった意気込みで、いくらかの延滞も合わせて、返しきった。であるから、やっぱりスッキリしたのはした。

 終戦したのは何十年も前で、時代や文化が目まぐるしく変わってもその賠償金を払いつづけるような、ようやく戦争が終わったよ、てな具合(あるいは、まだ戦争は終わってなんかない。ぼくの高校生活は敗戦じゃないのだから賠償金という例えも成立していないけれど)。

 

 私立高校やら大学やらなら学費もたいそうなものになるのだろう。ぼくは知らない。

 たかだか公立高校。たかだか百万円、もなかったと思う。それでも自分で払うのだから、親や身内にどうこう言われても、お前が払うもんじゃなかろうがと、正論を振りかざしていたっけ。

 学費は親に払ってもらうのが最良だと思いつつも、自分で払うならば他に何を言われても、あんたにはなんの迷惑も負担もかけていませんが、とは言えよう。ただし、これはかわいくない。だいぶ嫌われる。三等親から四等親から、嫌われる。迷惑も負担もかけられる人はかけたらいいと個人的には至極思うわけで、かけられない、かけようがない、というのが貧困なのだ。

 

 もし、退学しても、その分の学費は喜んで払えばいい。奨学生にしても、親にしてもだ。人生に無駄な時間はないとか、そんなことをホラ貝を吹くように唱える人がよくいるけれど、無駄は無駄として絶対に存在するだろう。

 いいじゃん。なんでいちいち、無駄じゃない、あれは無駄なんかじゃなかったってまるで言い聞かせるように言う。無駄だと痛切に感じているから、ホラ貝を吹くのではないか? その贅肉は無駄ではないのだね? 無駄を認めないと、無駄がかわいそうだ。

 人生に無駄は必要だ。そして、おそらくはほとんどが無駄だ。その無駄たちが、時々、一瞬輝いてくれたり、振り向けば道が出来ていたり。無駄万歳。留年は無駄。しなければしないほうがいい。学費は少なければ少ないほうがいい。というのも、実に無駄話。

 どう過ごすか。どう過ごしたか。どんな人に出会ったか。プライスレスな経験。そこが重要。ま、それもお金がないと味わえないわけだが。

  奨学金制度に感謝申し上げ、 ここで結ばせてもらおうと思った束の間、小説家・坂口安吾のある言葉を思い出したのでそれを最後に。

 

 「親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。」

 

 

 

 

 

留年してから卒業まで先生方によくいわれたこと

・一年生の頃(二回目)

 「辞めなかったんだから卒業しなさい」

 「休むな。来るだけでいいから来なさい。また一年生やりたいのか」

 「去年もここやったぞ」

 「みんなの手本になれ」

 「お前が率先しなさい」

 「早退するな。来たんだから帰るな。また一年生やりたいのか」

 「先輩らしくしろ」

 「課題をサボるな。帰らなかったんだからちゃんとやれ。また一年生やりたいのか」

 「さすがセンパイ」

 

・二年生の頃

 「修学旅行行きたいだろう?」

 「お前の元同級生は卒業するんだぞ」

 「違和感なくなったな。馴染んでるよ」

 「十八歳はもう青年だぞ」

 「就職にしろ進学にしろ、今年中に決めないと。また二年生やりたいのか」

 「さすがセンパイ」

 

・三年生の頃

 「ちょっと老けた一年生がいると思ったらなんだお前か。ジャージの色が同じだからまちがえた」

 「お前の元同級生は社会人だぞ」

 「お前の元同級生は大学生だぞ」

 「十九歳はもう大人だぞ」

 「留年しても辞めずに来て卒業できそうなのに、就職も進学もしないなんてお前どうかしてる。もう一回三年生やるか?」

 「今年で二十歳か。そうか。センパイ、選挙行けよ」

 「なにお前、まだいたの?」(卒業式当日の朝、体育館入場前にて)