高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

留年と音楽

 留年していると、ダサい音楽は聴けない。

 まず、なにをもってダサいとするか、そもそも音楽にダサさなどあるのか、この問いに関しては真面目に考えないでほしい。「好きなの聴けばいいじゃん」そんなことはわかっています。そういう話ではないので、「まあ、いいたいことはわかるけど」ぐらいの感覚を、了承願いたいところである。

 留年生活を送る人間にとって、イヤホンとは親友だ。それはちょうど、ネロにとってのパトラッシュみたいなもの。生き死にに関わる重要な存在。それは騒音から心身を守ってくれる役割があるのはもちろんで、まあしばらくはそれを最大の目的とし使用することになる。音を楽しむなんて、そんな余裕は留年直後にはない。

 

 「◯◯さん、なに聴くんですか?」

 

 年下クラスメイトと打ち解けはじめたころ、こういう質問を受けることになる。ここから打ち解けはじめる、といってもいい。高校生にとって音楽の話は、エロ話にも勝るとも劣らないパワーがある。

 僕がその当事者であった年代は、2002年前後。ヒップホップやパンク、ラウドなどといわれる音楽がかっこよかった。ハイスタ、ゴイステ、KEMURIキングギドラ等。これらのアーティストは有名であったから、それらを聴いていたところで特別にオシャレというわけではなかったが、やっぱり押さえておきたい、だれだって、という具合のもの。だから、もうひとつ自分を演出するのなら洋楽が好ましいね。まだだれも知らないようなバンド、あるいは、だれかでも知っているようなグラミー賞歌手の曲など。そこいきますか、なんですかそれ、ぐらいがいい。雰囲気が出る。先週Mステ観たあとすぐCD借りに行ったでしょうと、MDプレイヤーのラベルに恥ずかしげもなく書かれてあると、きっと年下たちもやるせない。『ダブり』は、イケててほしい。人生の先輩に俺らの知らないことを教えて欲しい。

 とはいえ、時代がある。いまはアイドルが好きだということを隠さなくていいし、僕だって、当時がいまのような音楽シーンであれば、「チェキっ娘聴いてるよ。推しメン? 下川みくに〜!」なんていったかもしれない。

 とはいえ、とはいえだ。留年した心を癒してくれるのは、アイドルでない気もする。癒してくれるのは忌野清志郎かもしれない。チバユウスケかもしれない。留年とはロックであり、ブルースであるから……。なんてキザなことをいいやがるとの評をいまこの瞬間、僕はいただいていることであろうと察しはつくけれど、やはり留年は踊ったり飛んだり、みんなでワイワイするものでもないから、詩人になるもの自然なことかなと思う。その『ダブり』がひょうきんであることを選んだ、としてもだ。顔で笑って背中でナントカだ。

 ダサい音楽は、その後卒業するまでの道に悪影響を及ぼす可能性をはらんでいる。留年したすべての人間にいえる、卒業するという目標を遂行するための基本理念、「ナメられないようにする。ナメられたら終わり」。これをもとに考えれば、自ずから、「おお、俺? △△聴いてるよ。めっちゃいいよ、聴いてみ」「◯◯さん、センスいいっすね。へえ〜」などと、隔たりを緩和したりもするであろう。見られる目が変わる。

  が、演出や理屈など無視して、好きなものを純粋に好きだと胸を張っていえる人が、高校生活が、人生が、好ましい。好きな音楽を聴けばよろしい。 

 

 

 

 

 

 

 

 

留年とファッション

 一目も二目も置かれる留年生においてやはりその目は到底数え切れない、天文学的な数の視線の矢を浴びるわけだが、高校留年にまつわるいかなる話にも当事者にとってはこの状況が基本にある。では、ファッションを紐解いてみよう。ハイスクールに通うわけではないのでファッションもへったくれもないように一見お思いになるかもしない。制服が学ランであれ、ブレザーであれ、どこまでが指定、非指定であっても、趣味が垣間見える瞬間がある。無論、留年していようがしていまいが、ではあるが。

 以前にも申し上げたかもしれない。重複お許し願いたい。『ダブり』にも様々な事情、おもむきがある。病気や怪我、イジメ、進路の悩みで休学していたために、なまけになまけた挙句単位が足りなかった、少年院に入ってた、進学高に入れたものの落伍した、などなど。これらの事情にファッションがイコールするか、それはもちろんあくまで個人の「ああ、そういう人ってそういう感じね」の感覚ではあろう。まあ、ヤンキーぐらいにしか、ああとはならないかもしれないが。

 僕も青春のテンプレートよろしく、学ランを着ていた頃はひどく自意識過剰にできていたために、二度目の一年生をはじめるにあたって、顔つき、しゃべり方、髪型、そしてファッションには演出を加えたくなった。改めて記しておくと、僕は不良ではなかった。勉強は好きだけど体が、というわけでもなく、勉強のほうは中の下(下の上が正直なところ)、いじめ、これも多分そこまではなかった。工業高校に入ったのに、工業の道に進みたくはないと一度目の一年の一学期で強烈に思ったために、退学する予定で休学、留年。結局、復学した。というわけで、不良カルチャーのようにわかりやすい自己表現ができない。糊の効いたカッターシャツを着れば頭脳明晰な雰囲気に、との思考も指定のポロシャツが邪魔をするし、中間考査でボロが出る。そもそもカッターシャツなど持っていない。

 靴だ。校則は自由。アディダスのスーパースターを履くのに、この普通感がどうにもひっかかった。スネーク柄とか、トリコロールカラーとかであればまだしも、白に黒。新入生の何人がそれを履いてくるかもしれぬ、それももしクラスにいたら、「ダブってる人と、俺靴同じだ。うわあ、高校生活最先悪すぎ」出鼻を挫いてやりたい趣味はない。名前も良くない。スーパースター。スタンスミスも持っていたので、こっちならと思うが、それだってやはり多くの人間が履いてくるだろう。色も白に緑のど定番。あだ名も多分、スミスにされる。残された選択肢は、ドクターマーチンのエイトホール。色はワインレッド。あだ名はマーチンになるかもしれない。若干、名字にもかかっている。あるいは、安全地帯とか、玉置とか、そっちになるかもしれない。命名の危険度で言えばもっとも高く死の予感がしたけれども、そのブーツのルックスゆえ年下がからかえるような代物ではなし、また、それを学ランと合わせるなんて、いかにも蠱惑的で謎めいて、病弱さもない、不良の血生臭さもない、それでいて近寄りがたいあの人は一体……。この塩梅だった。

 で、鞄も指定はなかったからなにがいいかと考えたいものの、ポーターの黒のトートバッグしかない。ちょっとアンバランスな気がしないでもないというひっかかりはどうにもならにので諦めた。あとは、ベルトを革の太めのをズボンに通して、手首にはGショック。アンバランスな気がしないでもないのだけれど、当時は足し算ばかりの、これもまた若さゆえ。自分としては装備をなんとか整えた、という具合。精神的な鎧にもなる、いや、するわけだ。ママチャリでお自転車通学というのがなんともアンバランスを絶頂にさせるが(2000年初頭、高校生の通学にママチャリはトレンドでもあった)。僕の場合は、こうして二度目の一年の一学期の始業式へ。

 

 ドクターマーチンは人から買ったものだった。その相手とは、僕が一度目の一年生の時のクラスにいたひとつ年上の留年生。僕が生まれてはじめて見たダブりのうちのひとり。もうひとりもそのクラスにいて、そっちはビーバップとか湘南純愛組の末裔みたいな人だった。その不良ではないほうの、常にオーディオテクニカのヘッドフォンを首に巻きつけて、当時主流だったMDプレイヤーではなくCDプレイヤーを操るパンキッシュな頭髪のほうに売買を持ちかけられ、半ば強引ではあったが、双方合意のもとに取引が成立したのだった。まだ知り合って一ヶ月ぐらいでの出来事である。この春の売買で、僕は留年への道に体を預けてしまったのだろうか。ある意味で留年はファンタジー。であればそうかもしれない。その一年後に自分が同じブーツを履いて、同じように奇異の目で見られる。彼らは僕が休学するより先に退学した。

 

 これも何度でも言う。最初が肝心だ。あとからいくらでもなるにはなるが、最初がこれからを決めるといっても過言ではないような。なめられたら終わりだから。そういう意味で、ファッションは留年生の力になり得る。足し算に飽きたら、つぎは引き算をすればいい。ただ、留年はファッションではないのであしからず。

 

 

 

 

 

 

留年と通学

 自転車通学だった。だから、電車やバスなどで学校に通う留年者の心中は僕にはわかりかねるのだけれど、さぞ、お辛いでしょうとは想像ができる。だって、逃げ場がない。その点、自転車はいい。自由だ。好きな道を通れるし、速度だって自分次第。が、自転車にもそれなりに辛さはあるわけで。

 えっちらほっちらと自転車で向かえば、近づくにつれ同じ学校の生徒が道に増えてくる。脇道から、向こうから、あっちから。とにかく、湧いて出てくる。最寄りの交差点に着いたともなれば、全方位に同じ制服。そのなかで何年生なのかがわかる印が、自転車の後輪カバーの下に貼らされる、ここの生徒のものですよと示す学校名が略されて印字されたシールだ。学年ごとに色がちがう。体操服のジャージの色や、体育館シューズのサイドのステッチの色、同様。入学すると僕は緑だった。一年生の時、そのシールが赤いのがいれば、その人は二つ上の三年生。青いのがいれば、ひとつ上の二年生。緑であれば同級生。だった。一年生を二回やると、それは変わる。自分の色は変わらない。赤いのがいれば、新しい同級生。青いのがいれば、ひとつ上の三年生。緑がいれば、同い年の二年生。

  大きな交差点、進行方向の信号に行く手を阻まれたら、そこは留年者にとって視線はりつけ地獄である。「あいつ学校来てんじゃん」「あいつ辞めなかったんだ」「あの人ダブってる人だよな」「そういうチャリ乗るんだ」等である。留年者にとっていかなる場面であれ辛い期間というのは、やはり、もとの同級生が卒業してくれるまでの期間であり、新しい同級生となじめない期間。どちらも辛い。そして、重なる。だが、もとの同級生さえいなくなってくれれば、こっちのものともいいたくなる心理状態がやがて訪れ、自然、年下クラスメイトとも笑い話ができるようになる。この二つの勢力に対し、どうか、留年生諸君には負けないでほしい。いや、当然勝ち負けではないから、せいぜい潰されないよう、自分を保ってほしいと願うばかりだ。

 が、通学に関していえば、もうひとつ勢力がある。三年生に進級し、卒業も見え、クラスの居心地もいくらか良くなっている頃、奴らは現れる。地元の中学の同級生だ。これが実に煩わしい。早く言えば、マジでウザいのだ。なにも、彼らだって急に現れるわけではない。自分が暮らす同じ町から高校に通っていたのだから。朝家を出れば見かけているし、見かけられてもいる。では、自分が三年になった春から、なにがマジでウザくなるのか。

 奴らは私服で原付に乗りはじめる。仕事着で車を運転しはじめる。この、エンジンがついている側とついていない側の隔たりったら、マジでない。「助手席乗ってくか〜」などと言われた日には、わざとぶつかっていくらかもらおうかと考えるほど。「原付じゃ運動不足でしょがないよ〜」などと言われた日には、頭部をブロック的なもので殴打しようかと、それを目でちょっと探しだしてしまうほど。 「まあさ、大学受験失敗して一浪するのと同じだと考えたら、ダブるなんて大したことないよ。俺だって大学もうすでに留年しそうだし! じゃあね〜!」

 マジでウザい。これが留年者の自転車通学だ。逃げるが勝ち。

 

 

 

 

 

 

 

 

留年と学費

 世の大半の高校生が親の金によって三年間の門を開け、そして閉めていく。親が学費を出すのは当然であって、そこに理由も大義もあったものではない。親には迷惑云々……という家庭の事情もそれぞれだが、払ってもらえるならば払ってもらったほうがいいには決まっている(子供が教育を受けるのに親が迷惑などという感想を持つようであれば、そんな親に払ってもらう必要もない気はするが)。

 僕が四年かけて卒業した高校は公立高校だった。家庭の経済の為に進路といえば公立校に限られていたものだから、滑り止めの私立の試験すら申し込めない、一発にすべてを注ぎ込むかのような受験を経験し、それは運良く、推薦入試とかいうので面接と作文で簡単に受かったものの、ここをどうして、留年してしまう。退学しようとして休学するのだ。それからまたしても不可解に僕は復学し卒業を目指す。

 奨学金という制度によって高校に行かせてもらっていた。いまで言う、日本学生支援機構だかなんだか、当時は育英会という名称だったかしらん。無論、これは借金。返さなければならない。誰が。自分が。すべての行動は自らの意思。僕は三年分で済むものをもう一年分、おかわりしたことになる。当時僕は考えた。半年間、正式な手続きでもって休学していたのだから、学費は三年と半年分だろうと。当たり前だろうと。甘かった。甘すぎないスイーツが世間を喜ばせる昨今だが、一昔前、あまりにもその考えは甘すぎた。

 退学する。ここは俺の行くところじゃない。お残しは許しまへんでといくら言われても中座しようとした僕が、結局はお腹パンパンの状態で卒業し、それから何年もきっちり四年分の奨学金の返済に追われることになる。いまから数年前に完済した時にはさすがに、俺はアホだ、と思った。三年分で済むものが、四年分になっているのだから。休学の半年分の計算の怪については、問い合わせるような無様な行為もしたくなく。かといって泣き寝入りよろしくの態では癪に触るので、払ったるわい、のしをつけて払い込みしたるわいの意気込みで、いくらかの延滞も合わせて、返しきった。であるから、やっぱりスッキリしたのはした。終戦したのは何十年も前で、時代や文化が目まぐるしく変わってもその賠償金を払いつづけるような、ようやく戦争が終わったよ、てな具合(あるいは、まだ戦争は終わってなんかない。僕の高校生活は敗戦じゃないのだから賠償金という例えも成立していないけれど)。

 私立高校やら大学やらなら学費もたいそうなものになるのだろう。僕は知らない。たかだか公立高校。たかだか百万円、もなかったと思う。それでも自分で払うのだから、親や身内にどうこう言われても、お前が払うもんじゃなかろうがと、正論を振りかざしていたっけ。学費は親に払ってもらうのが最良だと思いつつも、自分で払うならば他に何を言われても、あんたにはなんの迷惑も負担もかけていませんが、とは言えよう。ただし、これはかわいくない。だいぶ嫌われる。三等親から四等親から、嫌われる。迷惑も負担もかけられる人はかけたらいいと個人的には至極思うわけで、かけられない、かけようがない、というのが貧困なのだ。

 もし、退学しても、その分の学費は喜んで払えばいい。奨学生にしても、親にしてもだ。人生に無駄な時間はないとか、そんなことをホラ貝を吹くように唱える人がよくいるけれど、無駄は無駄として絶対に存在するだろうと僕は考える。いいじゃん。なんでいちいち、無駄じゃない、あれは無駄なんかじゃなかったってまるで言い聞かせるように言う。無駄だと痛切に感じているから、ホラ貝を吹くのではないか? その贅肉は無駄ではないのだね? 無駄を認めないと、無駄がかわいそうだ。人生に無駄は必要だ。そして、おそらくはほとんどが無駄だ。その無駄たちが、時々、一瞬輝いてくれたり、振り向けば道が出来ていたり。無駄万歳。留年は無駄。しなければしないほうがいい。学費は少なければ少ないほうがいい。というのも、実に無駄話。

 どう過ごすか。どう過ごしたか。どんな人に出会ったか。プライスレスな経験。そこが重要。ま、それもお金がないと味わえないわけだが。

  奨学金制度に感謝申し上げ、 ここで結ばせてもらおうと思った束の間、小説家・坂口安吾のある言葉を思い出したのでそれを最後に。

 「親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

留年してから卒業まで先生方によく言われたこと

・一年生の頃(二回目)

 「辞めなかったんだから卒業しなさい」

 「休むな。来るだけでいいから来なさい。また一年生やりたいのか」

 「去年もここやったぞ」

 「みんなの手本になれ」

 「お前が率先しなさい」

 「早退するな。来たんだから帰るな。また一年生やりたいのか」

 「先輩らしくしろ」

 「課題をサボるな。帰らなかったんだからちゃんとやれ。また一年生やりたいのか」

 「さすがセンパイ」

 

・二年生の頃

 「修学旅行行きたいだろう?」

 「お前の元同級生は卒業するんだぞ」

 「違和感なくなったな。馴染んでるよ」

 「十八歳はもう青年だぞ」

 「就職にしろ進学にしろ、今年中に決めないと。また二年生やりたいのか」

 「さすがセンパイ」

 

・三年生の頃

 「ちょっと老けた一年生がいると思ったらなんだお前か。ジャージの色が同じだからまちがえた」

 「お前の元同級生は社会人だぞ」

 「お前の元同級生が大学生だぞ」

 「十九歳はもう大人だぞ」

 「留年しても辞めずに来て卒業できそうなのに、就職も進学もしないなんてお前どうかしてる。もう一回三年生やるか?」

 「今年で二十歳か。そうか。センパイ、選挙行けよ」

 「なにお前、まだいたの?」(卒業式当日の朝、体育館入場前にて)

 

 

 

 

 

 

 

年下クラスメイトと打ち解けたころによく言われたこと

 「ダブってる人ってとんでもない不良だと思ってたから、◯◯さんが初めて教室に入ってきた時拍子抜けしました」

 

 「さすが、◯◯さん。年の功だね!」

 

 「めっちゃヒゲ濃くって、もみあげなんかもめっちゃ太くて長くないと、ダブってるって雰囲気ないですね。◯◯さん、薄っ」

 

 「◯◯さんは年寄りだから重いもの持たせないで〜」

 

 「パイセンは人生経験豊富」

 

 「すげえマニアックな洋楽聴くのかと思ってましたけど、ちがうんですね」

  

 「去年の中間テスト、なにが出ました?」

 

 「ここの主」

 

 「◯◯さんだってちゃんと掃除してるんだからさ〜」

 

  

 

 

 

 

 

 

 

留年と部活

 運動部にしろ文化部にしろ、ハツラツとその活動に勤しむ生徒が留年をかましてしまうなどということはこれまでに聞いたことがない。日本列島のすみずみまで調査すれば一人や二人出てくるのかもしれないが、まあ稀有な存在だろう。

 では、留年する人間というのは部活動を一切してこなかった人間なのか? そうではない場合が、多い気がする。それも、運動部であった場合が。つまり、どこかのタイミングでそれを辞めたのだ。留年する生徒の中で圧倒的にその円グラフを我らのものと言わんばかりに占めようとするのが、不良・ヤンキー業界。ついで、ぼくがぼくであるために苦悩する反体制スタイルな一匹狼業界。彼ら彼女らは、バイクや音楽に触れる前にスポーツに汗を流していた時代があり、そこで挫折を経験しているのだ。下手で下手で球拾いしかできなかったという人間もいれば、エリートで県選抜チームにも入っているほどに有望だったのに大怪我をしたり、上には上がいることを知って心が粉砕されたりと様々だろう。そこから、周囲とはズレ始める。保育園または幼稚園、小学校、中学校と、基本的には同級生のみなと同じように過ごしてきている。一見するとそう印象を持つが、やはりそうではないわけで、家庭環境はいろいろだ。その蓄積されていた黒いものが、ふと運動を辞めたあとに止めどなく溢れては次第に凝固する。それは、座礁したタンカー船が重油を海にぶちまけるかのごとくであり、岸壁に忍び寄ってはうず高くなろうとす黒い塊のごとくである。

 部活を辞めると(事情や辞め方にもよるが)、下降あるいは転落する可能性が高いと親をはじめ友人や世間に思われているのが現実だ。そして、自分はダメな人間だと思い込んでしまうケースも多い。そんなことはないのだけれども。だって、それを辞めた分だけ視野が広がるではないか。いままで、バットやグローブ、スパイクにジャージにしか向いていなかった眼が、それこそバイクや音楽やファッションに行く。本を読むようになるかもしれない、落語を聴くようになるかもしれない。これまで付き合ってこなかった人間と友人関係を築けるかもしれない。それは素晴らしいこと。金髪のモヒカンやメガネのインテリと接してはいけない理などない。別れなければ出会えない。出会えば別れる。なんのことはない、自然の摂理というやつだ。

  さて、留年してその高校にまた通いあくまで卒業を目指すのだという生徒がいて、そんな彼あるいは彼女がなにかの部活に入ろうかなんてことがあるのか。これも稀有中の稀有。ないだろう。なにが嬉しくて、クラス以外にも自分がダブりであることを示さなきゃならない。そこで、留年してることなんて関係ないよな、なんて爽やかな思考を持つ人間はそもそも留年しない。

 筆者であるぼくはといえば、部活動をせずに留年以降の三年間を過ごす。担任が国語科で空手部の顧問で、文武両道大好きおじさんだったが為に、ある時までぼくはその空手部に入れ入れと毎日のように耳元で囁かれ、一瞬も迷うことなくその都度無慈悲な断りを返していた。「空手部に——」との言葉があらわれなくなったのは、ぼくが彼にオススメの本はなにかないのかとお伺いを立て、それを借り休憩時間になっては読み耽りはじめてから。先生からすれば、なにかに打ち込めとか、まあそこまでのことでなくとも、なんかせえや、といったところで、本を読むならじゃあ本読んどけといった塩梅だったのだろう。十七歳の高校一年生が未経験で空手部に入るだなんて、どうかしている。高校を留年している時点でそうなのだから、もうこれ以上どうかしたくはないものだ。この頃のぼくは考えた。高体連は、留年している生徒に対してはどういう扱いをするのだろうか。年齢がひとつ上であるのなら、これはある種のドーピング扱いか? 十八歳で強制引退か? 高三時、十九歳になった瞬間反則負けか? だれが部活なんかやるもんか。そして、ぼくはバイトをはじめ、生活と将来のために金を稼ぎだした。

 振り返って思う。文化部に入っていたらどうだったろう。新聞部であれば、紙面に留年の特集が組まれては年下記者に取材を受け、自身も部員で記者でありながらなにも書けず、まるで犯罪者のように名前が出ていたかもしれない。写真部であれば、留年した男として被写体専門になっていたかもしれないし、私生活まで追われてはなにかやらかさないかとスキャンダルを期待されスクープを狙われていただろう。それは結局新聞部に売られる。演劇部であれば、なぜ留年し、いかに留年を過ごしているかの学園ものが上演される。しかも、留年した生徒の役ではなく、ジジイの教師役をやらされる。といったところが相場だったにちがいない。

 学校の部活になど入らなくとも、自分でなにかを見つけ活動すればいい。見つからないなら、見つける活動をすればいい。バイトでも読書でも運動でも遊びでも。なにかに属さなければできないこともあれば、その逆も必ずある。部活動礼賛主義の高校青春朝焼物語に、誇り高き留年精神を明け渡す必要はない。