タレメーノ・カクの高校留年考&元芸人社会復帰道

笑われて、笑わせて、笑わせられず、笑う暮らし

押し付けがましい笑いがそこらにある

 一般社会において、MC風の人がたまにいる。

 だれかの真似を無意識的にしているようなのだけれど、自分が気持ち良くなっているだけで、こちらは不快極まりない。ぼくが元芸人だから専門的にケチをつけているというわけでは決してない。ただただ、押し付けがましい笑いの作り方に疲弊している。上の立場を利用した、悪行であることが相場だ。はやい話がパワーハラスメントで。笑ハラである。これは、受け取る側みんな感じることと思う。

 なかには、「ああ、この人こんなに喋れてすごいなぁ」と感想をお持ちになられる方もおられるかもしれない。それはそれ、これはこれということで。

 

 信頼関係がなく、方向性も、目標もないので、みんなで番組をライブを作り上げてお客さんに喜んでもらいましょうという幹がないので、よっぽど上手いかよっぽどおもしろくないかぎりは自殺行為、いや、自爆テロ。こちらまでいってしまうわけだ。痛いのはだれだってイヤ。素人がむやみに刀を振り回してはいけないのだ。礼儀作法がやはりある。論理だってやはりある。がんばればいいというものではないんだな。そして、思いやりがなければうまくいかないんだな。 そうなんだな。

 

 

ホットレモンティーが美味しい

 「なんで芸人やめたの?」と、聞かれることがある。

 

 聞かなくてもわかるだろうと率直に思う。肩壊しちゃってさぁ、とはならないわけである。

 

 「おもしろいのに。またやりなよ」と、いわれることもある。

 

 まともに受け止めることはない。あらそう? じゃあやろうかしら、とはならないわけである。芸人をやった者でなければ、わかるまい。

 

 ぼくがその道を志したとき、叔父が、「食えるのは一握りじゃろうが。趣味でやったらどうや。まあ、Y本行くんも反対はせんけど」と大真面目にいってきた。

 

 反対はしないとはどういう了見だろう。報告をしただけで、だれも相談などしていない。賛成か否かも聞いていない、第一、協力を要請しているわけではないのだから、賛成も反対もへったくれもない。それに、お笑いを趣味でやるとはそどういう発想なのだ。解せない。オレはポーズだけのバンドマンではない。はやく東京に行かなきゃ、ここにいてはオレは腐る。そんな感想を抱いた。

 

 お笑いを趣味でやる。そう望む人がいるのだろうか。たとえば、自分の中のお笑い心を職場で発揮できない人が悶々と苦しい日々を過ごしていたとして、休日、そのもう一人の自分を解放させたいなどという思いは果たしてあるのだろうか。プロを目指すつもりも会社を辞めるつもりもないが、そういう時間を生活の中に取り入れたいと考える人がいるだろか。

 

 いるかもしれない。

 

 自分にその発想はないが、そういう人がもしかしたら世の中にはいて、ひょっとしたら困っているかもしれない。そう思うと、自分でよければ何かお手伝いできませんか? と、思ったりなんかしちゃったりして、気恥ずかしい。あるいは力になれたら、お互いに豊かな暮らしを 得られるかもしれないなんて、思ったりなんかして、相当exciteする。どうだろうか。おかしいかな。でも、その精神的用意はあるような気がしている。

 

 東京は今日、涼しい一日だった。

 

 

晴れますように

 数日前、近々お笑いライブを久しぶりに観に行こうかと調べてみれば、古巣のそれが今日行われるとのこと。ああそうかと、胸に去来するものを無視。

 さて本日、行くつもりで準備をしていたが雨。雨を理由によすことに。来月もまたあるし、と。

 

 なにが古巣だ。五年、十年いたならわかるが、そうでもないのに、売れてなかったのに、古巣という言葉をセレクトした己に嫌悪の嵐止む気配なし。劇場に行ったところで、関係者だれもぼくのことは知らない。覚えていない。そんなことないよ! いや、あるよ。

 

 ところで、なぜまたお笑いライブを観に行こうかという発想になったのか。ここが問題なのだ。観に行きたい、あるいは観に行く必要があるから、ということでなければおかしいわけである。

 

 元芸人、これからどう生きる。

 

 お前、いまは一体何者なんだ。

 

 

 

 

「楽しい」と「おもしろい」

 「楽しい」と「おもしろい」はちがうわけだ。

 

 「楽しい人」と「おもしろい人」もちがうわけだ。

 

 「楽しい話」と「おもしろい話」ももちろんちがう。

 

 これがわからない人にわかってもらおうと話してわかってもらえなかった場合。

 

 ぼくという人物はその人にとって、楽しくもおもしろくもないのだとわかる。

 

 まあ泣くよね。

 

 

 

 

芸人崩れと陰口叩かれ、芸人崩れと明るく放たれ

 小学六年生の頃。『お笑い四天王』とみなに呼ばれる男子がクラスにいた。そう名付けたのは学級委員長。なんと無慈悲。時の権力者よ。

 

 その四人のうち、自意識過剰で勘違い甚だしかったのが、やはりぼくである。その響きに悦を感じながらも、一方でなにが四天王だとも。十年後、その他三人は大学を卒業し、そして就職した。その頃ぼくは東京で、所属事務所の稽古場へネタ見せに行ったり、番組のオーディションに行ったり、たまにライブに出演して、ほぼ毎朝新聞配達のアルバイト。自分が寝ているあいだに他の芸人たちはネタを書き稽古してるぞとの観念で目は常にうさぎのようであった。

 

 四天王のひとりに東京で会った際、ハンドルを握る彼に助手席から引退したことを伝えたらば、「え? 辞めたん? マジで?」と屈託のない顔で笑う。それは爆ぜかけ、そしてこうつづく。

 

 「まじか! 芸人崩れか〜! 二十五歳。がんばればなんとかなるだろう。おつかれさん! それよりさ、この車売って、新しいの買おうと思ってるんだけどさ」

 

 かつての四天王の明暗たるや。出張で訪う全国各地の風俗店で遊ぶのが楽しいと右折をし左折をし、はしゃぎまわる運転手。彼の右ヒジは窓の外。彼の紫煙はぼくの頬。ぼくの両ヒジは、ぼくの腹をえぐっていた。

 

 その後ぼくはいくつかの職場で働くのだけれど、「あの人、芸人崩れらしいよ」と聞こえたことは一回二回ではない。『崩れ』と知って、お笑いバトルを仕掛けてくる腕力自慢の人もいたる所に現れる。もちろん、ぼくは何もしない。先方の表現に笑うという選択をするだけである。「芸人目指してた奴にウケると嬉しいね」とリアクションする人もやはり多々いらっしゃる。ぼくは芸人を目指して、芸人になったのだ。テレビで見ないと芸人ではないらしい。

 

 芸人だったということを大きな声で発表することはないけれども、履歴書にはどうしても書くので、毎度こんな塩梅だ。書かないほうが、と思ったりもするが、事実を職歴を書くだけのことなので、書かないのはおかしい。「元芸人あるある」といったところだろうか。

 

 チェストォ! 気張れェ! おもしろくはないけど、そんな結びにしたい今夜である。

 

方言について

 西日本では大阪の番組が放送されることがままある。中国地方で生まれ育ったぼくもそれをよく観た。ゆえに青春時代、上方の笑いと関西弁には非常にコンプレックスを抱いていたように思う。勝てるわけがないと。

 

 「なんでやねん」

 

 そうつっこんでみたいと、つっこまれてみたいと羨ましかった。

 

 関西以西の言葉で、「なんで? なんでなん?」とか「なんでや!」はある。ところがその尾に「やねん」はつけられない。つけてみなさい。「なんで関西弁なん?」となる。要するに、むっちゃさぶくなる。テレビの力とはやはり凄まじく、ちょっとお笑い好きだったり、お笑い自慢だったりすると、みんな影響のまま簡単に関西弁を使うわけだが(これは幼少期に限らず、サラリーマンでも)、実におもしろくない。おもしろかったものも、おもしろくなくなるのだから、東京人だろうが西日本人だろうが、関西弁圏以外の人間は使わないほうがよいのだ。使いたがるくせに下手なのは永遠のミステリー。

 

 ぼくの昔の友人で岐阜出身のある芸人が関西弁で活動していた。なぜだと聞けば、「名古屋が近い土地で育ったからやん」という。彼が仮に岡山だとか福井の育ちだとして、「関西が近いから」というのは理解できる。方言とはそういうものだから。そう、県境でくっきり変わるものではない。

 

 「名古屋に近い土地で育ったからやん」

 

 育ったからやんの、この「やん」は、育ったからに決まってるとかそんなニュアンスも感じられるわけで。いや、影響を受けるのはわかる。名古屋のローカル番組は有名な人もたくさん出るし、おもしろい番組、それこそ関西の人たちが爆笑をつくっているのだから、広島で憧れたぼくと同じで、それはわかるけれども。

 

 「名古屋に近い土地で育ったからやん」

 

 光浦靖子さんや、スピードワゴンさん、あるいは流れ星さんに同じことを聞かれたら、彼はなんというのか。そういえば、彼の地元は山奥だっといま思い出した。岐阜のど田舎の濃い方言のほうが個性が立っていいと思う一方で、やはり関西弁を貫いてみてほしいとも思う。が、彼の関西弁は拙いリズムで違和感しかない。愛すべき人間である。引退していないことを願う。

 

 「名古屋に近い土地で育ったからやん」

 

 

 

芸人風

 芸人風の人が世にはいたりする。どこの職場や学校にもいるのではないだろうか。

 彼らは、声が大きいね。そして、しつこいね。同じ話を毎回同じテンションで披露してくるね。おもしろい話があってさぁ、と喋り出すイノセント性があるね。ものまね、まったく似てないわけじゃないけど、まねる人への愛やリスペクトが感じられなくて些かの不快感をこちらに与えてくるね。

 そして、そんな人というのは守備がとてつもなく弱い。こちらのボケにつっこめない。つっこむどころか、ボケに気がつかない。拾うとか、転がすとか、振るとか、まあできない。プロではないのだから、できなくて当然。が、自信家なので、まれにつっこむ時はある。その形の相場はだいたいこのふたつ。

 

 「◯◯か!」

 

 「どんだけ◯◯なんだよ!」

 

 職場や学校でない空間だと、30代〜40代のママさんが午後のスタバでよくいってますな。楽しそうでなによりです。人の悪口とかいじりで笑いを産むというのは、非常に難しいなと勉強になる。「楽しい」と「おもしろい」はちがう。ぼくが書くのは「おもしろい」にまつわること。笑いのこと。

 

 ナニハトモアレ。笑って暮らしたいというのが人情である。人をたくさん笑わせることができる人は、自身よく笑っている。笑う力があるからこそ、笑わせることができるのだろう。そんな人にぼくもなりたい。プロの芸人を引退してもなおそう思うのだ。職業としてぼくはもうやっていけないけども、生き方としてはできるだろう。

 一般社会で働く人の中にもこの『芸人風』に疲弊している人はきっといて、笑いに鋭敏なそんな人たちはヤツらに一矢報いたいと、思っていないだろうか。いるのなら、手助けがしたいと強烈に思う。そんな人たちのセコンドにつきたいなと思う。