タレメーノ・カクの高校留年白書

高校ダブったらこうなるぞ!!

同じ学校にとどまることを決め、そして登校する

 留年の当事者の中でも、それぞれに決めた道というのがあると思う。決してみなおなじということはない。退学して働く。退学して働かない。休学をする。定時制通信制編入する。同じ学校にとどまる。学校に行くという道を選んだ人は、この春から環境が変わるのだろう。

 

 ぼくは退学して働きながら定時制に入ろうと思っていたのだけれど、結局は同じ学校にとどまることになった。絶対にここを卒業してやるんだといった強固な意志はまったくなかった。

 「ただ、なんとなく行ったほうがいい気がする」という直感めいたものがあったのみだ。前にも書いたように、身内や大人たちの中に「そんなにいやなら学校やめれば」という人は一人もいない。「行け」「行かなきゃダメ」当然にこうとしかいわれていなかった。

 しかしそれで、「はいわかりました行きます」というような根性を持ち合わせていたのなら最初から留年などしていない。真面目に通っていたはずである。

 「なんとなく行ったほうが」という当時抱えた感覚は、筆舌に尽くし難い。

 霊能力があるわけでもないが、そういう言葉が脳裏をよぎってしまうほどにこれは理屈ではなかった。大人たちや社会とやらにビビって中退する勇気がなかったのではないか? そんな声も若者からは聞こえてきそうだが、そうではなかったのだ。

 一年生を留年したわけだが、この入学時のクラスのままみんなでもう一度といわれれば去っていたと思う。イジメられていたわけではないのだけれどどうにも合わなかった。だから、ちがう、新しいクラスならなどという発想もちっぽけにあった。

 いざ行こうにも卒業できるかどうかまでは到底イメージが湧かない。二年生になる想像もできない。出席してまともに試験を受ければ上がらないわけはないだろうが、いつまたやめると考えはじめるかもしれない。でも、なんとなく、今日やめるのはちがう、明日定時制に行くのはちがう。なんとなく、なんとなく。ただその感覚だけを頼りに日々を過ごした。

 なにもしなくても日は昇れば沈む。秋にはじまった休学はあっというまにやって来た春によって終わりとなった。

 この頃になればもうなにも考えてはいない。無心に近い心境で、考えたところで気分は堕ちてゆく一方だし、なにも策などない。ただ体を学校まで運ぶ。それだけが唯一にして最低最大の焦点だった。

 

 新しいクラスメイトになる年下の同級生の入学式の日、ぼくはスクールカウンセリングルームにいた。再三の登校を促されていたぼくは復学の前日、ようやくにその部屋へと初めて行ったのだった。休学して実に七ヶ月近くが経っている。

 自称カウンセラーの英語科教諭は「明日の始業式からまあ気楽にな」といった旨のことをたしかいった。薄気味悪い部屋だった。ルービックキューブがあったり、ジェンガがあったり、心理系の本がいくつも置いてあったりした。児童館のような、あるいはなにかの施設のような、そんな場所。やっぱりオレはここに“通院”する必要はなかったなと、自分の感覚に自信を持てた場所。

 しかしだ。自分で決めたとはいえ、逃げ出したい気持ちでいっぱい。そしてその気持ちからも逃げられず袋小路にぽつねんとしていた。かつて在籍したクラスは二年に進級し、自分だけが残る三階の教室の真下に移動する。同い年の上級生らは工具で天井を開け、床を貫き、下からつねに見上げて、のこのこと来ては椅子に座るぼくをのぞき嘲笑する。そんな映像さえも簡単に次第に立体的に思い浮かべるようになっていた。工業高校機械科なのだから、あながちアホな発想ではない。

 なぜこんなに苦しい思いまでしていやな学校に復学しなければならないのか。

 「なんとなく」という感覚の正体はなんなのか。

 さっさと定時制なり通信制編入して心機一転やり直せばよかったのだ。

 そんな思いはしばらく消えることはなかった。

 

 始業式当日、ぼくは遅刻直前のギリギリを見計らって登校する。

 一年生の自転車置き場へと向かい自分のクラスの前へたどり着くと、クラスメイトの自転車の後輪の泥除けには略された学校の名前が印字された真新しいシールがほぼ同じ位置にみな貼られてある。発色鋭い真っ赤なシールが端から端までびっしりと並ぶ。しなびた緑色のシールの自転車を持つぼくは、端の数台を中央にそれぞれ少しづつ寄せ、すみませんという念とともに自分のものを差し込んで、音を立てないようひっそりと止めた。泥棒の気分だ。留年するとはこういうことなんだろうと理解して、これから三年間ずっとそうかと絶望した。なにを始業するんだ。オレもその式に出るのか。この期に及んでまだそんなことを思っていた。 

 

 ぼくは経験者として、この春新しくなる留年の後輩諸君に気の利いた言葉を贈るべきなのかもしれないけれど、申し訳ない、なにもない。「死にはしない」とか「好きにしてください」といったようなことしか思いつかない。

 ただ、「人間万事塞翁が馬」であるということは、後々みなが自分で気づくのだろうと察しがつく。その時はその馬に跨がればいい。どこにでも行けるようになる。

 

 

 

誰かのせいや何かのせいに

 留年に至ったことに対し、自業自得ということことは誰にいわれなくとも本人が一番わかっていることと思う。いかなる理由であってもだ。

 だが、のっぴきならない事情というのも世の中にはある。それはクラスメイトに話せないことであるかもしれない、あるいは担任に話しても無駄なことであるのかもしれない。中学の地元の同級生に語ったところで、わかるわかる俺だってさ、私だってね……わかるわけはないのだ。抱えなくていい。そんな事情は手放してしまえ。

 大人はどうせ、人のせいにするなとか社会に出たらもっとどうとか、へどが出るようなことを平気でいう。彼ら彼女らがいう世間とは、親戚、職場、同窓会、たいがいそれだけの範囲だ。その世間は厳しいらしい。甘くないらしい。どうでもいいことである。

 つらくてしんどくて潰れそうになったら、誰かのせいや何かのせいにすればいい。大人は、そんなことでは解決しないという。解決とはなんだ? かくいう大人も、誰かのせいにしては酒を飲んで、太って、特保のお茶を飲んで、禁煙するだしないだ、したから煙がいやだとか飯が美味いだとか、若い頃は痩せていたとかいって汚く騒ぐ。そして、何かのせいにしては阿呆まる出しで不倫する。そう何十年と過ごし、ただ死んでゆく。自分は家を建てた、子育てをした、子供を大学にやった、税金だってたくさん納めたなのになんだこの年金受給額はとかいいながら惨めに。男も女もだ。

 人のいうことなんていい加減で、結局自分の価値観を披瀝したいだけなのだから、さらには、それを揺るがされるのが怖いから若者に強く当たっているだけ。自分だって若い時に大人にいわれてはがゆい思いをしたはずなのに、いざ自分が大人になったら、社会に出てわかった、親になってわかったと、同じことをする。みんなと同じような車に乗って、みんなと同じような洋服を着る、そんな人たちのいうことなど、諸君、気にしなくていい。もし、留年が流行ったとしたら、奴らはきっと留年を肯定するだろう。かっこいいじゃんとかいってくるにちがいない。殴ってやれ。黙らせろ。

 留年して退学するなり、どこかへ編入するなり、もう一年同じ教室に残るなりは解決などという問題ではない。何から解放される、自分を解放するという問題だ。

 「今日の自分」を誰かに反対されても、自信がなくなりそうになっても、“なんとなく気が向く”ところへ行ってほしい。逃げてほしいともいえる。誰かや何かのせいにしてもいい。生命の危機、人生への危険があるのなら、逃げればいい。恥ずかしいことではない。肉体にしろ、精神にしろ、殺されるよりマシである。

 僕は高校一年の九月から三月まで逃げた。ただひたすらに書店に入り浸っていた。そして四月、始業の日、年下しかいない教室に入った。それからもしょちゅう逃げた。午後は逃げた。午前中からも逃げた。授業中、トイレに行ってきますといってそのまま逃げたこともあった。逃げることもどうせいつかは飽きる。そしたら、矢印を自分に向けたらいい。行くべき方向が見えてくるから。

 おかげさまで僕にはいまでも命があり、世間の広さに日々おどろいている。

 

 

 

高校を留年していた著名人に

 こんなことをわざわざ調べている暇があるのなら、本を読んだりしていてほしいとも思うのだけれど、これがなかなかどうして勇気をもらう。

 現在国会議員の元俳優氏がそう。高校をダブっている。同じクラスの中学生が互いに殺し合う映画で氏が演じた役も留年している、みなよりひとつ年が上の生徒。

 時折、ネットで炎上したりする某博士さんもそうらしい。

 この両氏、ぼくはかねてより大がいくらもつくほど長いあいだファンである。そんなこと知らねえよという話だろうが、なにがいいたいって、彼らが留年していたなんてことを知ったのは好きになったあとなのだ。なんだよ! オレと同じじゃないか! とね。

 

  著名人、なかでもとりわけミュージシャンに高校中退やそもそも高校に進学していないという方は多いようでそんな情報はたまに見かけたりもする。

 高校留年はどうだろうか。

 ぼくはそれをいちいち調べる趣味を持っていないので偶然知った二名の存在を挙げたにとどまったけれど、そんなにいないはず。

 ちなみに、ぼくの通った高校から軽音楽部に在籍する生徒が組むロックバンドが、在学中にインディーズで全国CDデビューした。地元で有名な存在に成り上がった。そのメンバーの中に留年生が二人いた。顔が見えないほどまぶしかった。

 もちろん、高校卒業後なり大学卒業後なりに身内が口すっぱくいうような「普通の仕事」に就く高校留年経験者もいるだろう。どうなってもいい。留年していようがいまいが、好きな仕事に必ず就ける。筆者も諸先輩方につづきエンターテイメントの世界へ。夢は小さいながらも叶えられた(周知の通り無名である)。

 

 著名人にその職業の性格もあってか非常に心を奪われるわけで、彼らの仕事に触れる機会があるとき、我々は遠慮なく両手いっぱいに勇気をもらえばいい。留年すること、したこと、年下の中に自分が在ること。本人がひとりで抱えるべきだ。自分の人生だ。孤独を愛したらいい。だれかに理解されようなどと思わないことを卒業生であるぼくは勧めたい。理解などされたまるかと踏ん反り返るぐらいでいい。

 オレはひとりじゃないのかもしれない。なんてことを、著名な先輩たちを見て思うことだろう。「留年したって関係がない」ここにたどり着かせてもらえる。

 諸君もつづけばいいのだ。先輩たちに。可能なことだ。ぼくだってできたのだから。

 

 

 

 

 

一報届けば休息すべし

 留年が正式に決まってしまえば、ある意味でひと段落といえる。留年などしたくはないと回ってきたツケを必死に支払う生徒には申し訳ないが、支払えないのであればそれは当人の怠惰の結果なのであるから自業自得である。進級など許されない。

 しかし、それでも、そんな生徒にも、はなから休学していた生徒にも、原級留置の一報というのはわずかな安らぎをもたらす。なぜか。

 イっちゃったからである。

 もうそうなれば賢者のごとき精神でもって、新しい時間を送るしかないのだ。退学するにしろ、もう一度同じ学年をやるにしろ。前に進むしかない。

 中退とは中途退学のことであって後退のことではない。これを誤解すると人生おかしなことになる。留年とはもう一度同じ学年をやるということであって、もう一度同じ時間を過ごさなければならないということではない。これを誤解すると次元が歪む。むしろパラレルワールドへひとっ飛びしたいと願ってやまない者もいるとは思うが、残念ながらこここそがその世界なのだ。なにごとも諦めるなとかいう精神も大いに結構であるが、諦めも肝心という言葉もあるわけで。

 ルールが下した決定は覆せない。であるなら、次だ。どうする。なにを、いつまでに決めればいい。それまでたくさん考えて考えて考え抜くべし。煮詰まったら手放したほうがいい。その時の感覚でいいのではなかろうか。

「長考に好手なし」将棋界に君臨する言葉だ。留年論にもいえるといえる。

 精神をしごきあげていた日々に終わりが来たなら、まずは休むべきであろう。でないと、すぐにまたしごきあげるなんてのは狂気の沙汰と僕は思う(年齢、体力もあるかもしれないが)。

 考えていない者は考えよう。考えている者は考えないでいよう。その時、心に素直に判断すればよし。

 でもでもと思考の渦を巻いている材料というのは、行く行かないということではなく、案外、どうすれば恥をかかないか? なんてことかもしれない。あるいは、どんな顔して年下と話せばいい? なんてことかも。できない理由ではなく、できる方法を探しているということ。立派なことである。

 一報届けば休息すべし。

 

 

 

 

 

 

 

身内

 これはもう大騒ぎ。

 身内から高校留年者あるいは中途退学者なんて人間を出してしまえば末代までの恥だと、若年ホームレスの誕生だと、これぐらいに大人らは考えている。田舎であればそれは顕著のように思うし、東京でもなかなかではなかろうか。これは大学をダブる辞めるという話ではない。高校の話である。

 「高校ぐらい出ないでどうするんだ」

 これはもう、「早く風呂入んなさい」と同じほどいわれる。

 

 親や親戚からすれば、留年自体はおそろしく馬鹿げたものと思っているようではあるものの、卒業すれば構わないというデッドラインもまたあるようなので、留年が決まってしまえば意外とそれについてはいわれない(私立で親に学費を払ってもらっている場合はどうだろうか。想像に難くない)。

 ではなぜ、留年が決まってもいないのにひどく口うるさいのか。

 留年すれば確実に退学するからだ。

 そんなこと、人生の先輩方にはお見通しなのだ。休学や退学を支持してくれる大人など皆無に等しい。いるのであれば、その家族はどんなに素敵なんだろうと想像がもりもり膨らむ。

 ぼくは部活を辞めた時に、「あんた、きっと学校もええ加減になるけえの。しっかりしんさいよ」と母に予言されていた。それは見事に当たった。

 文字通り、「良い加減」になったのだ。

 すぐに登校しなくなり、休学へとことは運んだ。

 

 けれど、祖母からは毎晩のように電話が来るし、母子家庭なものだから叔父が電話口の向こうから腕力をチラつかせてくるしで、包囲網はすぐにできる。

 

 「若かった」ぼくはぼくにそうは決して思わない。

 人をナメ腐っていた心、それは良くはないかもしれない。しかしながら、三十を超えたいまの自分にも同じ感覚は根強くある。いっときの迷いや、過ちや、なんたらかんたらなどというものが理由で学校を休みがちになる人間は結局留年などしない。それは、きっと若さである。健康的なものである。

 

 卒業をしたわけだが、ぼくが高校を留年したという事実など身内の者みな忘れている。親だって、親戚だって、兄弟だって。中学の同級生だって、そういえばといった具合だ。笑い話になっている。なんの恥もない。むしろ話の種になり、意外という印象を持たれたりする(ダブりイコール不良という図式を描く人が世間では圧倒的多数)。

 物理的な悪影響や、損もなにもない。せいぜい親に「あんたの歳じゃったら同級生みんな結婚しとるんじゃないん? 同級生? ひとつ下か? あれ? あの子は同い年? あの子は一個下? あんた何歳なん? ややこしいね」と、ちょっぴり面倒臭いだけだ。

 ぼくはこれまでも書いたし、これからも書くのだろうが、ここでもまた。

 ダブって別にいいことはない。しんどいことしかない。だが、それは学校にいるあいだだけの話。ということも付け加えておこう。

 ダブるべくしてダブった。そんなことを心底から思い感動することはあるかもしれない。そんな感情を抱くことは可能である。

 

 ぼくは、休学も退学も、留年も支持する。

 なにもすべてを肯定するわけでもないが、本人の人生に本人の思考や決意があるのなら、いかなる関係性であれ否定する由はない。人のことなどどうでもよろしい。人のアドバイスに耳を傾けない人は、それはちょっと苦労しそうだけれど、人のいうことばかりに沿って動く人はおもしろくない。

 

 ぼくの年の離れた弟は中卒だ。

 試験の答案用紙に名前を書けば入れるような、点線で書かれたアルファベットを上からなぞれば入れるような、そんな地元の公立高校を彼は中退した。

 その頃ぼくと一緒に暮らしていたら、また少しはちがう結果だったかもしれないが、ちがったらちがったで、なんじゃそりゃと思う。

 弟は、いま学歴で苦労しているらしい。雇用形態や、処遇などなど。

 影響のない職種につけばいいだけなのでは? 兄は思う。そんなに弊害を感じるなら、高卒の資格を取って夜間の大学でも通えば? 簡単に思う。簡単なことなのだ。周知の通り、言うは易しだ。「中卒でもがんばれば云々」そういったのは本人。やるは難しか? 夜飲み歩いたり、ゲームしている時間を勉学に費やすことはそんなに難いか? 幸せは人それぞれだ。彼がそれでいいのなら、兄もまた幸せかもしれない。

 

 善かれと思って人生の先輩方はみな、アドバイスをくれるのだ。感謝するべき。どんな意見にも、人にも。すべてを聞こう。そして、すべて無視すればいい。

 

 

 

 

 

スクールカウンセラー

 悩む生徒はスクールカウンセラーの先生に相談するといいらしい。だれがこんなことを言うのか。無責任極まりない。言論の自由とは、実に尊い。

    この「カウンセリング」という言葉が当時の僕には引っかかる。なにや医療めいたものを感じずにはいらず、自分は十分正常な精神状態であると、その先生のいる部屋へ行くよう電話で何度担任に言われても、行く気になれない。教室には来なくていいから、とにかく学校に来いということらしかったが、門を越えるどころか、僕は学ランの袖に腕を通すことさえ気持ちが悪いので固辞していた。元来、僕は人に相談するということをしない人間なのでこの時も行ったとしてなにになるのか、話すこともないと思っていた。そしてそれをそのまま担任に伝えつづけていたのだが、ある日そのスクールカウンセラーの先生から電話がある。おっさんである。聞き覚えのある喋り方をしたおっさん。聞けば、僕のクラスを受け持つ英語教師のおっさんであった。彼の喋り方は、授業の時より幾らもテンポが遅く、ただ日本語が苦手なだけなのかとも感じたが、きっと、僕の病状に合わせたメトロノームがあるのだと想像した。自分はいよいよ病人なのではと、そんな気分にさせられた。

 それから時々、彼から電話がくる。「どうだ、気分は」お前のせいで良いわけがない。僕は学校のなにが気に入らないかも話さなかった。なにが気に入らないのだろうと改めて考える必要もあってか、別にとか、なにもかもとか、そんなことを言っていた記憶がある。仮に、白衣を着た若く美しい女性の先生であっても僕は同じ態度だったと思う。そんなことで学校に行けるなら、最初から休まず行っている。

 

 もし、君がいま、スクールカウンセラーなる大人に胸の内にあるものを相談しに行こうかどうかを悩んでいるのであれば、どうぞ気軽に行くべきである。それは、もう行きたいということなのだ。でも、でも、でも。でもというのは、それは行きたがっているなによりもの証拠だ。話したいことを話し、話したくないことは話さず、行きたいところに行き、行きたくないところには行かない。これはもう、普通のことだ。自然である。敵はいない。味方もいない。ただ、スクールカウンセラーという仕事を持った人がいるというだけ。勝手に、悪魔や天使にするでない。

 君は病気ではないはずだ。病気と診断されたほうが嬉しいか? 楽になれるか? 都合がいいか? 人それぞれだと、そんなことは僕もわかっている。だから、だれの意見も聞かなくていい。人のアドバイスなど無視して構わない。

 カウンセラーなんかに理解されてたまるかという心で挑めばよろしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

イジメに遭っていたのか、不良だったのか、いずれにしても血生臭い

 とある漫画の話。

 担任教師から留年しそうな不良生徒へ、警鐘を鳴らす場面がある。

 

 

「お前、このままじゃ卒業できんぞ。ただでさえ成績悪いのに身上書にまでキズ付けて、そんなにココ(学校)が好きか、お前? 後輩にクン付けで呼ばれる覚悟はしとるのか?」

「先生よー、ウルトラ警備隊っての? あれは偏差値どんくらいあれば入れるの?」

 

 

 松本大洋さんの『青い春』という作品。美しい漫画であり、格好いい映画にもなった。

 

 ぼくは休学していたのでこの場面を実際には経験していない。電話口の向こうで担任に言われたかもしれないが、担任は女性だったのでこういうことを言われたとは考えにくい。

 当時の担任は、ぼくがイジメに遭っていると思っていると感じられる節があった。それを先生は母に言うわけだ。すると、母がぼくに言うわけだ。

「あんた、イジメにおうとるん? 情けないね、男のくせに。学校行ってやり返してきんさいや、云々」

 ぼくはイジメには遭っていはなかった。そう認識している。だが、担任の言葉によって休学中のぼくは、イジメられていたのかと認識を改めそうにもなりかけた。ぼくがいない教室で、担任はみなに聞いたのかもしれない。そこで何かしらが明るみになったのかもしれない。たしかに、野蛮で陰険なクラスメイトは何人かいて、その存在に心が苛まれることは日々あった。

 ぼくが脳内でツバをかけた彼らがいま、家庭を持ち、ファミリーカーに乗って、社会的地位を得て、地域の人々に信用され生きているとしても、ぼくは会いたくない。そういう奴らはたしかにいたが、奴らにぼくの人生を変えられるだけの影響力はなかったように思う。そうだ、それは絶対にない。

 

 マッチョ信仰のある工業高校だったが故に、もし担任が男であったらば、ぼくは引きずり出されていたかもしれない。ラグビー部にでも入れられて、明日に向かって走らされていたかもしれない。母いわく、担任が女性だから、我が家には父親がいないから。だから、ぼくは甘えて調子に乗っているのだそう。これはチャンチャラおかしい。高校を三年で卒えている人間が言うものとは思えないほどに、理論も叙情もない。

 担任は休学中もよく電話をくれたし、世間話だけをしてくれたりもして、女性らしい丸みを帯びた対応をしてくださったとぼくは感じている。何の落ち度も先生にはない。男ばかりの荒々しい教室で親よりも若い彼女は日々消耗しながらも、気にかけてくれていたのだ。母には物足りないのかもしれないが、彼女は母の担任ではない。

 そして、父親がいたとすると、ぼくにとっては死だったはずだと考えられる。文字通り、死んでも通学しなければならなかっただろうからだ。ぼくはいま生きている。父がいなかったからだ。

 イジメはどこで遭うかわかったものではない。学校だけで起こるものだと認識している親は、ちょっと怖い。

 

『青い春』でウルトラ警備隊に入るための偏差値を知りたがった彼は結局、調子に乗っている友人を学校のトイレの個室内で刺し殺し、その後階段に座り煙草を吸っているところで例の担任が現れ、

「校内で喫煙とは大した根性だ。覚悟はできとるのか?」

「ピース」

 と口にし、二本の指を出す。

 映画版では、煙草のシーンの後、学校に駆けつけた警察に連行される。

 

 ぼくは不良でもなかった。

 不良を“やる”気持ちもわからない。他人からすればサッカー少年という評だったろうか。だけれど、殺人者になった彼の胸の内がひどくわかってしまう。違和感の奴隷になり自分に逆らい学校にいれば、だれかを刺すか、自分を刺すか……そうだったにちがいない。ハンマーを振りかぶった叔父にぼくは殺されそうにもなったわけで。

 留年を前にすると、体から何かしらの液体が必ず漏れる。透明だったり、赤かったり、黄色かったり。溜め込んでも溜め込んでも、最終的になにかは出る。イジメに立ち向かうも、逃げるも、好きにしてほしい。自分の人生、自分のやりたいようにしかできない。という、常套句を書くのもぼくは好きではない。

 相手にするな。いろいろな人間がいて、世界は広い。許せないないなら、許さなくてもいい。狭い島で、小さい人間の相手になるな。海は広いし大きいのだ。あれは嘘でも誇張でもない。自分の島を探して泳ぎたまえ。頭のおかしな人は次第に、自分の目の中には存在しなくなる。認識だ。この世界は自分の認識でできている。泳げなくてもいい。泳ぐことが目的ではないから。合う合わないは程度の差こそあれど、どこに行っても必ずある。大人になったってそうだし、仕事も、会社も、友人関係も、恋愛関係にも、なんにだってある。ただ、世界はひとつじゃないことを知ろうじゃないか。流した汗は嘘をつかないというのは文科省推奨の宗教であって、それを信じられる人はいいものを食べて育ったのだなと思うぼくには、これはどうも照れくさい。だから、こう言おう。

 匂う血生臭さは嘘をつかない。

 イジメに遭っても、人をイジメてはいけない。人に刺されても刺し返してはいけない。人に刺されそうになって、逃げられない時は、その時は刺してしまおう。正当防衛だ。休学、留年だってそうだろう。

 なにが悪い。なにも悪くないじゃないか。