タレメーノ・カクの高校留年白書

高校ダブったらこうなるぞ!!

◯◯さん

 いまさら書くまでもないが、留年し、その学校にとどまり年下とクラスメイトになれば教室は当然に気まずく、人間関係の構築など夢のまた夢。これは、それを経験すればだれしもが抱く素朴な感想だと思う。

 たとえば、もう一度一年生をするとする(僕はこのパターンである)。新入生同士でもすぐには打ち解けられないわけで、しかしながら、同級生のことを、クラスメイトのことを「◯◯さん」と呼ぶ人間は皆無に等しいだろう。みなは、「◯◯くん」からはじまり、早速にシンプルなあだ名がつけられ、次第に苗字で呼び捨ても出来るようになり、ちょっと凝ったようなあだ名がまたつけられたり、最終的には下の名前で呼び捨てをし合うという、たしか友情とかいった、そんなものが級友と級友とのあいだに育まれる。そこに、なかなか留年生は入れない。

 もし、二年生や三年生をふたたびやるのだとしたら、もう出来上がっているクラスに“異物”が混入されるわけだから、もといるみなからの反応は、一年生のそれとはまた一味もふた味も違うと、想像に難くない。けれども、出来上がっているクラスというのは、ネガティブな要素よりもポジティブな要素のほうが上回るのではないかと、僕は考える。もちろん、ひとり年上の人間には疎外感は尋常ではなかろうけれども、すでにクラスのみなのそれぞれのキャラクターが粒立てられていて、みながお互いにお互いのことを知っているわけだから、明るい者が明るい者に背中を押され、新しいクラスメイトに話しかけもするだろうし、みなが高校生活に慣れている。新入生は不安で自分のことで精一杯で人のことなどかまっちゃいられない。二年生、三年生にもなれば、十五歳だった少年が、もう青年になろうとするいい年齢なわけで、この一、二年の差は大きい。それに加えて、そのクラスに結束っぽいものがあるのであれば(毎年クラス替えがあるのであれば話は変わるが)、受け入れは早いはずだ。

 その一方で、そうだからこそ、村八分にされる可能性もあるかもしれない。が、それはそれで助かるなという心理も働くと思う。実際に、それはそれで恩恵があるはず。妙にベタベタされるより、良いというものだ。年上はそうそうナメられるものでもないし、堂々としていれば大丈夫。別に犯罪者でもなければ乞食でないわけで、クラスのだれに迷惑かけるわけでもなし。一年、多く人生やっている分、ちょっとくらい威張っても、まあ高校時代くらい大丈夫。それくらいの気概もあれば素敵だという程度の話。

 いずれにしても、このクラスに自分を受け入れてくださいという姿勢はこちらには当然必要で、素直が一番、それがもっとも話が早い手段だろうことは明白。斜に構えていてもはじまらない。そうしてたいうちは、飽きるまでそうしてたほうがいいぞとは、僕は思うので、特に素直さをススメもしない。そして、斜に構えてろとは言う気もないので、これも忘れずにつけ加えておく。

 

 留年すると、「◯◯くん」とははじまらない。無論「◯◯さん」そして、卒業する時にも「◯◯さん」……かもしれない。

 もし万が一、僕の言っていることとは違うことが起こったら。つまり、いきなり「◯◯くん」から留年生活がはじまったら、「ジャニーズじゃないんだから」と、心の中でツッコむか、相手に直接、一発かましたらいい。もやもやは少し晴れるはずだから。そして、もし、卒業する時に、「さん」が取れて、下の名前で友情よろしく呼び捨てにされたり、ちょっと凝ったあだ名をつけられ愛されたならば、「俺は、あんたみたいな暗い留年生活、高校生にはならなかったぜ」と胸を張り、僕をからかったくれたまえ。

 

 僕の場合、二年生に進級する頃には二文字の名字のイニシャルを冠して「M◯さん」とみなから呼ばれ、三年生に上がってからは、◯が消されてイニシャルだけで「Mさん」。そして、卒業する時には「Mゥ〜」と呼ばれていた。くんとか、さんとか、そんなもの、気づけば簡単にはがれてどこかに落ちていたみたい。あくまで僕の経験した場合の話だ。

 

 

 

 

 

黒い春でも、それは春

 中途半端な屈折、嘘に限りなく近い自殺願望、頭はもちろん良いわけではないが輝かしいほどに悪いわけでもなく、親や教師に、なにかの本で読んだ言葉を振りかざして、ひとりになれば自分の才能はなんだろうか、これなら、あれなら、だけれど、だけれどと、夢みたいなものや、淡い願望はいっちょまえにあったりする。

 青春とは、青くないね。青い、青かった、そういえる人は留年などしていない。すればやっぱりそれは黒い。

 人間、上には上がいる。そして、下にも下がいる。自称青の人も、また自称青の人の前では簡単にその価値観を揺らがせたりして、顔をまさに青くしたり赤くしたりするのだから、十代の色なんてものは、そもそも頼りない、うつりやすい色なのだ。だから、いま黒かろうが茶色かろうが気にすることはない。色があるのだ。ないよりは、もちろんいい。なかったら、これからいやでも色がつく。

 ぼくはもう、十代の人間の気持ちがわからなくなっている。よく、大人はそれを経ているのだから、そういう若者の気持ちがわかって当然で、若者は大人の気持ちがわかるわけがないといったような理屈を耳にするけれど、時代がちがう。十代のみんなのこと、俺はわかってるぜとかぬかす大人がいたらそれはもう信用してはならない。詐欺師でもなかろうが、ただのイタいやつ。大人、あるいは同年代の友人でさえも、だれもだれのことなどわかりっこない。親に理解されたいとか、もうそれはぼくは胸を張って諦観をススメる。諦めなさい。「人生なにごとも諦めてはいけないよ」と同等に、「人生諦めも肝心だ」である。

 ただ、応援されるような人になってほしいと、留年したみんなにはぼくから伝えたい。理解なんかされなくてもいいのだ。でも、だれもだれかを陥れようとか、自分の思うような道に進ませようとか、そんな親類ひいてはヒト、これはなかなかに存在はしないから大丈夫(もし万が一、そういう家で暮らし、抗えないのなら、逃げよう。家出。これしか道はない。家出という行為は素晴らしいよ。自立、自由、自分、『自ら』という言葉はカッコイイ)。応援してもらえるような姿を、見せようとしなくていい、ただ、やりたいことをやりたいようにやる。気がすむまでとことんやる。身の回りで、こんなことだれもやったことないだろうということを、自分がやる。

 新しい高校へ編入するにしろ、残ってまた同じ学年をやるにしろ、四年で卒業するということを掲げてやってみると、案外、卒業するんだなんてことはもう大したことのないミッションになっていて、もう卒業後の進路に対してのウォーミングアップをしたりなんかして、元々の同級生が大学で遊びまくっている最中、自分は留年で鍛え上げた精神でもって卒業後スタートダッシュかまして、茶髪にピアスの恋愛に忙しい彼ら彼女らを追い越しているかも。

  高校を出たところで、大学を出たところで、就職をしたところで、いっちょまえになるわけではないと思う。やりたいことがあって、それに気がついていて、素直にそれをやりはじめる。うまくいかない。恐怖。不安。絶望。でも、まだまだ俺は——。休憩しても、またやりはじめる。と、これがいっちょまえ、ではなかろうか。何百歩目のこと考えて一歩目を出せない人って、これもあまりいないと思う。『いっちょまえ』は『一歩前』の訛りである(たぶん)から、まず一歩だ。

 四月はどうも明るくていけない。虫や動物、どんどん土から出てくる。人間もたかだか生物なら、否が応でもそうなるか。

 未来のことなんてだれにもわからないわけだから、今晩のおかずだってなにかわからなかったりもするのだから、新しいクラス、新しい学校、これも行ってみないことには、どんな色してるかなんてわかりっこないね。

 

 新生活のその不安と希望と孤独はもはや従えてしまって、桃太郎のようにいざ、向かってゆけばいいのではないかしら。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わざわざ見に来るアホもいる

 休憩時間になっても当然話す人もいなければ、話しかけてくる人もいない。そしたらもうイヤホンを耳にねじ込み音楽でも聴くしかない。次の授業までの10分、これが永遠というやつか! と、いいたいほどに長く感じられる。

 ぼくの席は廊下側ではなく反対の一番窓側の列の真ん中あたり(これは実に幸運なことだったと思う)。外に顔を逃がすことができた。こうして静かにひとりで外を観察でもして過ごせばいい、と思っても大した景色もなく、見る物がなにもないとはいえ教室内に視野を展げるだなんてとんでもない。結局に目をつむる。だけれど、やっぱり窓側で良かった。中央列のもし、真ん中あたりだったらと想像したら、それだけで吐き気がする。360度逃げなし。コロッセオの戦士じゃあるまいし。

 あるとき肩をぽんぽんと、気のせいかと思うほどに本当に軽く叩かれて、なんだとやはり思って目を開ければ、クラスメイトのある生徒。ぼくの前にいてなにや用があるといった雰囲気なのだ。ちらと視界の隅に映る周囲の他の生徒もこちらに視線を集中させている。もうこの時点で地獄。見てくんなや。

 彼になにか用かと聞けば、あの、そこ、えっと、すごくいいよどむ。周りはまだ見てくる。ぼくは特段短気というわけでもなかったし、血の気の少ない方だからイライラすることも珍しいのだけれど、いままでに経験したことのないことが起きている。なんや。はよ何の用があるんかいえや。

 「◯◯さんおるかって、二年生が来てますけど」

  廊下を見ればドアの前に顔が二つ、ニタニタとかつてのクラスメイト。

 わざわざ上級生が階段を上って、面会に来てくだすった。仕方なく廊下に向かえば、教室内の視線も横にずれてゆく。すべての眼球に捉えられてやはり逃げ場はなく、ドアを閉めて、会話をすませてドアを開ければ、また見られる。絶世の美女が転入してきてもここまで露骨に見るかというほどに、まあ見られる。当然に、ぼくはすべてを無視する。それしか術がないし、どうすればいいかほかに知らなかった。

 これは始業式の翌日の一時間目終了後のできごと。早速にもほどがあるというものだ。よほど蔑みたかったのだろう。留年なんてほんとうにするもんじゃない。

 

  「みんな心配しとるんでェ。たまには教室遊びに来いやァ」だれが行くんや。

 「お前がたとえダブっても、わしらの絆は変わらんでェ」そもそもねえわ。あったら学校行っとったわ。

 「でも、もうなじんどるじゃん」なじんでないわ。アホが。

 

 嘲笑に対しては、徹底的に無視、あるいは徹底的に封じ込める。できれば封じ込めたいものだけれど、なかなかそうもいかないのが現実であって、学校であれど社会というもの。いかなる状況であれ、理不尽であっても、他者を、または自分を攻撃するなんてことは控えたほうがいいのではなかろうか。自分に必ず返ってくる。

 いいたい奴にはいわせておいてやろう。見たい奴にはいくらでも見せてやろう。だけれども、こちらからわざわざ献上する必要はまったくない! 自分以外の人間がなにをいおうが見ようが自分には関係がないことなので、無視がいい。無関心でいい。逃げていい。逃げきってほしい。仮に関心があって、無視できないのなら、無理して無視したり無関心を装わなくてもちろんいい。そしたら逆に、留年生を弄くり回すヤカラをこちらが見てやろうじゃないか。そして気づいたことはいってやろうじゃないか。そう、こちらが相手を研究すればいい。決して嘲ることなく。学年はもう一度同じかもしれないけれど、同じ一年を過ごすわけでもない。だれかを下に見て安心したい人にはそうさせてあげよう。かわいそうだから。

 ひざを折って、目線の高さをこちらがわが合わせてあげて、やさしく声をかけてやればいい。

 「ところで、自分のことを心配をしたらどうなんだい?」とね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャージの色もちがう

 二度目の高校一年生。

 はじめての体育の授業。

 グラウンドで体操隊形に広がる赤いジャージの中に緑がひとり。

 留年している生徒は上空からヘリで見たって一目瞭然だ。

 

 体育教師はひどく野蛮な人で、生活指導の責任者だという。春だというのにすでに肌は真っ黒、キャタピラみたいな金のネックレスをして、ポロシャツの固そうな襟を立てて、竹刀を持つ。これは2001年の話なのだけれど、当時でさえ、こんな人がまだいるのかと思って、なんでオレはこんな所にと思って落胆した。

 共学とはいえ、ほぼ男子が占める工業高校には持ってこいといった感じのその人は、「おらァ、◯◯! お前センパイなんじゃけェしっかり腕伸ばして手本になれェや!」などと叫ぶ。恥辱とはこのことかと、ぼくはこの晩広辞苑を開いた。

 

 またこのジャージの緑がよりによってなぜだか妙に明るい緑なのだ。発色がいいのは、去年一年間あまり着ていなかったからというのとはおそらく関係がなくて、元々みずみずしいアスパラガスみたいなフレッシュ感がある。

 一方で、みなが着る赤いジャージは、便宜上赤いと形容してるのだけれども、臙脂色、赤茶色、ワインレッド、その辺りの味わいを持つ、いわば渋い色だった。逆だろう! そう思った。ダブりが赤で、みなが緑だろう。

 「腐ったみかん」が云々というのは、昭和の学園ドラマなんかでいわれていたけれど、「腐ったアスパラ」なんか聞いたことがない。そうなったところでだれにも伝染せず、ひとりでしわしわと萎びてゆくだけ。

 教室で学ランを着ていれば一見ぼくもただの高校生だったから体育なんていうのものは地獄の沙汰で、憂鬱なんて騒ぎではない。みなの赤いジャージがまた血の池を連想させた。

 小中、高校の最初までサッカー少年だったぼくは、ゴールキーパーをしていたのだからみなとユニホームの色が自分だけちがうとういうことには慣れていたのだけれど、やはりそれとこれとは話がちがうわけで、精神が慣れるまでの煩悶といったら、そりゃあもう。

 

 果たして、こんな環境に精神が慣れていいのだろうか? 多分、慣れちゃダメだ。ぼくはそう思いながら、早退を繰り返していた。真面目に通うんだとか、やり直すんだとかいった心はまったくに持ち合わせていない。自分の置かれた状況に抗う必要もないのかもしれないが、「だれがアスパラガスや!」なんておどけてまで、みなと打ち解けたいなどとも思わない。言葉を発せずともスベっているのだし、笑われているにちがいない。だって、ひとりだけジャージの色がちがうんだから。

 

 だったら、オレだけちがう存在としてクラスに君臨してやろう。というぐらいの開き直りが、留年には必要である。

 ぼくはそうなれなかったので後世にこうして伝えている。

 恥辱の念はもう消え去ったので、それも手伝っているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

視線の矢は全方位から体に

 受験して、受かって、志望通りだったかどうかは別として、晴れて高校生になって、新しい制服を着て、ここにいるみんなと、この担任で、これから三年間どんな生活になるかななどと希望に満ち満ちている、はじめての朝のホームルームの中で、「昨日の入学式にいなかったクラスメイトが今日来ています。これでクラス全員揃ったわいや。おい、◯◯君、自己紹介してくれえや。昨日みんな入学式のあとにしとるんよ。君のことは僕からちょっと話しとるけど、本人の口から改めて。はい、ほら、立って」留年していなくったって注目を浴びるシチュエーションなわけだが、想像してほしい。この一秒の長さを。

 この人が“ダブり”か。留年している人間を生まれてはじめて彼らは目の当たりにしたのだ。無論僕も生まれてはじめての経験をしている最中だった。想像してほしい。自分の名前一字一字の重さを。ロシア人とかブラジル人のフルネームを言うほうがまだすんなり口から出た気がする。

 上から下から舐め回すように見られた。ヤンキーじゃなさそうだなとか、痩せてるんだな、年上だからといってヒゲ濃くはないんだな、弱そうだな、そんな風に見られているんだろうなと自分では思っていて、けれど、こんなことは来る前から容易に予想できたことで、実際に、僕が入学して一度目の一年生の時、僕はクラスメイト同様“ダブり”を観察する側だった。僕が見たはじめての“ダブり”は二人いて、どちらもなんていうか、見た目から怖かった。ひとりは当時でも時代錯誤の剃り込みアイパー。もうひとりはパンク野郎。とても友達にはなれそうもなく、クラスのメイトなんてものにも到底無理。そんな印象。

 こんどは自分が留年してまた一年生をやるとなると始業式当日、普段履きなれているアディダスのスーパースターではなく、ドクターマーチンのエイトホールに僕は足を入れている。ナメられないためだった。アディダスは悪くない。ナイキでもコンバースでも、この日は出番はなく、いや、当分なかった。ナイフやピストルを持っているわけでもないから、代わりに少しくたびれたチェリーレッドのブーツがあればまだと思い、現に僕の心身を支えた。学ランには少しやりすぎのようにも感じないこともなかったけれど、ちょっと寄せ付けないオーラを出すには十分効果を発揮したかのように思える。

 そして、体育館シューズを手に始業式へと向かう道すがら、クラスメイトは僕の足元に気づきうろたえる。噂話が聞こえてくる。きっと中学が同じだったとか部活が同じだとかで、仲がいいのがすでにいるのだ。気にしない気にしない。むしろ予定通り。

 だが、この道中、視線は彼らからだけではない。同じように体育館へと向かう元クラスメイトや元部活の連中に顔を指される。下を向いて歩こう。あまりにもひどい揶揄を受ければ、このドクターマーチンの先端を下腹部にお見舞いしてやればいい。などと、ダサいことを真剣に考えヒリヒリしながら歩いた。

 体育館では靴を履き替える。各々、自分の靴はビニール袋に入れ、式中は足元に置いておく。列の中、僕の体育館シューズだけ側面のラインの色がちがう。前後左右、みな赤だ。僕は緑。どこにいても、留年した人間だということがわかる。実に明朗だ。赤だ緑だと、カップうどんでもあるまいし。たぬきでもきつねでもあったらば、年下に化けてどうにか澄ましていられたかもしれないが、たかが人間だ。うつむくしかない。

 帰りのホームルームが終わると、僕は逃亡するように教室をあとにした。階段を勢い良く降りるときは、アディダスのほうがよかったなと感じた。駐輪場に行けば、自分の自転車はわかりやすい。貼られてあるシールがひとり緑だ。自分の視線さえもみなと同様になってしまっていた。あ、あれが“ダブり”の自転車。自分のものなのに盗むようにして取り出した。これが、初日のことだった。

 

 小学校中学校と転校の経験は僕にはないのだけれど、まあおそらくはそれとこれとはちがうだろうと思われる。みんなと仲良くなれるかな。◯◯さんと仲良くなれるかな。無論なれない。しばらくは——。

 

 

 

 

同じ学校にとどまることを決め、そして登校する

 留年の当事者の中でも、それぞれに決めた道というのがあると思う。決してみなおなじということはない。退学して働く。退学して働かない。休学をする。定時制通信制編入する。同じ学校にとどまる。学校に行くという道を選んだ人は、この春から環境が変わるのだろう。

 

 ぼくは退学して働きながら定時制に入ろうと思っていたのだけれど、結局は同じ学校にとどまることになった。絶対にここを卒業してやるんだといった強固な意志はまったくなかった。

 「ただ、なんとなく行ったほうがいい気がする」という直感めいたものがあったのみだ。前にも書いたように、身内や大人たちの中に「そんなにいやなら学校やめれば」という人は一人もいない。「行け」「行かなきゃダメ」当然にこうとしかいわれていなかった。

 しかしそれで、「はいわかりました行きます」というような根性を持ち合わせていたのなら最初から留年などしていない。真面目に通っていたはずである。

 「なんとなく行ったほうが」という当時抱えた感覚は、筆舌に尽くし難い。

 霊能力があるわけでもないが、そういう言葉が脳裏をよぎってしまうほどにこれは理屈ではなかった。大人たちや社会とやらにビビって中退する勇気がなかったのではないか? そんな声も若者からは聞こえてきそうだが、そうではなかったのだ。

 一年生を留年したわけだが、この入学時のクラスのままみんなでもう一度といわれれば去っていたと思う。イジメられていたわけではないのだけれどどうにも合わなかった。だから、ちがう、新しいクラスならなどという発想もちっぽけにあった。

 いざ行こうにも卒業できるかどうかまでは到底イメージが湧かない。二年生になる想像もできない。出席してまともに試験を受ければ上がらないわけはないだろうが、いつまたやめると考えはじめるかもしれない。でも、なんとなく、今日やめるのはちがう、明日定時制に行くのはちがう。なんとなく、なんとなく。ただその感覚だけを頼りに日々を過ごした。

 なにもしなくても日は昇れば沈む。秋にはじまった休学はあっというまにやって来た春によって終わりとなった。

 この頃になればもうなにも考えてはいない。無心に近い心境で、考えたところで気分は堕ちてゆく一方だし、なにも策などない。ただ体を学校まで運ぶ。それだけが唯一にして最低最大の焦点だった。

 

 新しいクラスメイトになる年下の同級生の入学式の日、ぼくはスクールカウンセリングルームにいた。再三の登校を促されていたぼくは復学の前日、ようやくにその部屋へと初めて行ったのだった。休学して実に七ヶ月近くが経っている。

 自称カウンセラーの英語科教諭は「明日の始業式からまあ気楽にな」といった旨のことをたしかいった。薄気味悪い部屋だった。ルービックキューブがあったり、ジェンガがあったり、心理系の本がいくつも置いてあったりした。児童館のような、あるいはなにかの施設のような、そんな場所。やっぱりオレはここに“通院”する必要はなかったなと、自分の感覚に自信を持てた場所。

 しかしだ。自分で決めたとはいえ、逃げ出したい気持ちでいっぱい。そしてその気持ちからも逃げられず袋小路にぽつねんとしていた。かつて在籍したクラスは二年に進級し、自分だけが残る三階の教室の真下に移動する。同い年の上級生らは工具で天井を開け、床を貫き、下からつねに見上げて、のこのこと来ては椅子に座るぼくをのぞき嘲笑する。そんな映像さえも簡単に次第に立体的に思い浮かべるようになっていた。工業高校機械科なのだから、あながちアホな発想ではない。

 なぜこんなに苦しい思いまでしていやな学校に復学しなければならないのか。

 「なんとなく」という感覚の正体はなんなのか。

 さっさと定時制なり通信制編入して心機一転やり直せばよかったのだ。

 そんな思いはしばらく消えることはなかった。

 

 始業式当日、ぼくは遅刻直前のギリギリを見計らって登校する。

 一年生の自転車置き場へと向かい自分のクラスの前へたどり着くと、クラスメイトの自転車の後輪の泥除けには略された学校の名前が印字された真新しいシールがほぼ同じ位置にみな貼られてある。発色鋭い真っ赤なシールが端から端までびっしりと並ぶ。しなびた緑色のシールの自転車を持つぼくは、端の数台を中央にそれぞれ少しづつ寄せ、すみませんという念とともに自分のものを差し込んで、音を立てないようひっそりと止めた。泥棒の気分だ。留年するとはこういうことなんだろうと理解して、これから三年間ずっとそうかと絶望した。なにを始業するんだ。オレもその式に出るのか。この期に及んでまだそんなことを思っていた。 

 

 ぼくは経験者として、この春新しくなる留年の後輩諸君に気の利いた言葉を贈るべきなのかもしれないけれど、申し訳ない、なにもない。「死にはしない」とか「好きにしてください」といったようなことしか思いつかない。

 ただ、「人間万事塞翁が馬」であるということは、後々みなが自分で気づくのだろうと察しがつく。その時はその馬に跨がればいい。どこにでも行けるようになる。

 

 

 

誰かのせいや何かのせいに

 留年に至ったことに対し、自業自得ということことは誰にいわれなくとも本人が一番わかっていることと思う。いかなる理由であってもだ。

 だが、のっぴきならない事情というのも世の中にはある。それはクラスメイトに話せないことであるかもしれない、あるいは担任に話しても無駄なことであるのかもしれない。中学の地元の同級生に語ったところで、わかるわかる俺だってさ、私だってね……わかるわけはないのだ。抱えなくていい。そんな事情は手放してしまえ。

 大人はどうせ、人のせいにするなとか社会に出たらもっとどうとか、へどが出るようなことを平気でいう。彼ら彼女らがいう世間とは、親戚、職場、同窓会、たいがいそれだけの範囲だ。その世間は厳しいらしい。甘くないらしい。どうでもいいことである。

 つらくてしんどくて潰れそうになったら、誰かのせいや何かのせいにすればいい。大人は、そんなことでは解決しないという。解決とはなんだ? かくいう大人も、誰かのせいにしては酒を飲んで、太って、特保のお茶を飲んで、禁煙するだしないだ、したから煙がいやだとか飯が美味いだとか、若い頃は痩せていたとかいって汚く騒ぐ。そして、何かのせいにしては阿呆まる出しで不倫する。そう何十年と過ごし、ただ死んでゆく。自分は家を建てた、子育てをした、子供を大学にやった、税金だってたくさん納めたなのになんだこの年金受給額はとかいいながら惨めに。男も女もだ。

 人のいうことなんていい加減で、結局自分の価値観を披瀝したいだけなのだから、さらには、それを揺るがされるのが怖いから若者に強く当たっているだけ。自分だって若い時に大人にいわれてはがゆい思いをしたはずなのに、いざ自分が大人になったら、社会に出てわかった、親になってわかったと、同じことをする。みんなと同じような車に乗って、みんなと同じような洋服を着る、そんな人たちのいうことなど、諸君、気にしなくていい。もし、留年が流行ったとしたら、奴らはきっと留年を肯定するだろう。かっこいいじゃんとかいってくるにちがいない。殴ってやれ。黙らせろ。

 留年して退学するなり、どこかへ編入するなり、もう一年同じ教室に残るなりは解決などという問題ではない。何から解放される、自分を解放するという問題だ。

 「今日の自分」を誰かに反対されても、自信がなくなりそうになっても、“なんとなく気が向く”ところへ行ってほしい。逃げてほしいともいえる。誰かや何かのせいにしてもいい。生命の危機、人生への危険があるのなら、逃げればいい。恥ずかしいことではない。肉体にしろ、精神にしろ、殺されるよりマシである。

 僕は高校一年の九月から三月まで逃げた。ただひたすらに書店に入り浸っていた。そして四月、始業の日、年下しかいない教室に入った。それからもしょちゅう逃げた。午後は逃げた。午前中からも逃げた。授業中、トイレに行ってきますといってそのまま逃げたこともあった。逃げることもどうせいつかは飽きる。そしたら、矢印を自分に向けたらいい。行くべき方向が見えてくるから。

 おかげさまで僕にはいまでも命があり、世間の広さに日々おどろいている。