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高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

誰かのせいや何かのせいに

 留年に至ったことに対し、自業自得ということことは誰にいわれなくとも本人が一番わかっていることと思う。いかなる理由であってもだ。

 だが、のっぴきならない事情というのも世の中にはある。それはクラスメイトに話せないことであるかもしれない、あるいは担任に話しても無駄なことであるのかもしれない。中学の地元の同級生に語ったところで、わかるわかる俺だってさ、私だってね……わかるわけはないのだ。抱えなくていい。そんな事情は手放してしまえ。

 大人はどうせ、人のせいにするなとか社会に出たらもっとどうとか、へどが出るようなことを平気でいう。彼ら彼女らがいう世間とは、親戚、職場、同窓会、たいがいそれだけの範囲だ。その世間は厳しいらしい。甘くないらしい。どうでもいいことである。

 つらくてしんどくて潰れそうになったら、誰かのせいや何かのせいにすればいい。大人は、そんなことでは解決しないという。解決とはなんだ? かくいう大人も、誰かのせいにしては酒を飲んで、太って、特保のお茶を飲んで、禁煙するだしないだ、したから煙がいやだとか飯が美味いだとか、若い頃は痩せていたとかいって汚く騒ぐ。そして、何かのせいにしては阿呆まる出しで不倫する。そう何十年と過ごし、ただ死んでゆく。自分は家を建てた、子育てをした、子供を大学にやった、税金だってたくさん納めたなのになんだこの年金受給額はとかいいながら惨めに。男も女もだ。

 人のいうことなんていい加減で、結局自分の価値観を披瀝したいだけなのだから、さらには、それを揺るがされるのが怖いから若者に強く当たっているだけ。自分だって若い時に大人にいわれてはがゆい思いをしたはずなのに、いざ自分が大人になったら、社会に出てわかった、親になってわかったと、同じことをする。みんなと同じような車に乗って、みんなと同じような洋服を着る、そんな人たちのいうことなど、諸君、気にしなくていい。もし、留年が流行ったとしたら、奴らはきっと留年を肯定するだろう。かっこいいじゃんとかいってくるにちがいない。殴ってやれ。黙らせろ。

 留年して退学するなり、どこかへ編入するなり、もう一年同じ教室に残るなりは解決などという問題ではない。何から解放される、自分を解放するという問題だ。

 「今日の自分」を誰かに反対されても、自信がなくなりそうになっても、“なんとなく気が向く”ところへ行ってほしい。逃げてほしいともいえる。誰かや何かのせいにしてもいい。生命の危機、人生への危険があるのなら、逃げればいい。恥ずかしいことではない。肉体にしろ、精神にしろ、殺されるよりマシである。

 僕は高校一年の九月から三月まで逃げた。ただひたすらに書店に入り浸っていた。そして四月、始業の日、年下しかいない教室に入った。それからもしょちゅう逃げた。午後は逃げた。午前中からも逃げた。授業中、トイレに行ってきますといってそのまま逃げたこともあった。逃げることもどうせいつかは飽きる。そしたら、矢印を自分に向けたらいい。行くべき方向が見えてくるから。

 おかげさまで僕にはいまでも命があり、世間の広さに日々おどろいている。