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高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

同じ学校にとどまることを決め、そして登校する

 留年した諸君の中でも、それぞれに決めた道というのがあると思う。退学して働く。退学して働かない。休学をする。定時制通信制に編入する。同じ学校にとどまる。学校に行くという道を選んだ人は、この春から環境が変わるのだろう。

 

 僕は退学して働きながら定時制に入ろうと思っていたのだけれど、結局は同じ学校にとどまることになった。絶対にここを卒業してやるんだといった強固な意志はまったくなかった。「ただ、なんとなく行ったほうがいい気がする」という直感めいたものがあったのみだ。前にも書いたように、身内や大人たちの中に「そんなにいやなら学校やめれば」と言う人は一人もいない。「行け」「行かなきゃダメ」当然にこうとしか言われていなかった。

 しかしそれで、はいわかりました行きますというような根性を持ち合わせていたのなら最初から留年などしていない。真面目に通っていたはずである。

 「なんとなく行ったほうが」という当時抱えた感覚は、筆舌に尽くし難い。霊能力があるわけでもないが、そういう言葉が脳裏をよぎってしまうほどにこれは理屈ではなかった。大人たちや社会とやらにビビって中退する勇気がなかったのではないか? そんな声も若者からは聞こえてきそうだが、そうではなかったのだ。一年生を留年したわけだが、この入学時のクラスのままみんなでもう一度と言われれば去っていたと思う。イジメられていたわけではないのだけれどどうにも合わなかった。だから、ちがう、新しいクラスならなどという発想もちっぽけにあった。

 いざ行こうにも卒業できるかどうかまでは到底イメージが湧かない。二年生になる想像もできない。出席してまともに試験を受ければ上がらないわけはないだろうが、いつまたやめると考えはじめるかもしれない。でも、なんとなく、今日やめるのはちがう、明日定時制に行くのはちがう。なんとなく、なんとなく。ただその感覚だけを頼りに日々を過ごした。

 なにもしなくても日は昇れば沈む。秋にはじまった休学はあっというまにやって来た春によって終わりとなった。

 この頃になればもうなにも考えてはいない。無心に近い心境で、考えたところで気分は堕ちてゆく一方だし、なにも策などない。ただ体を学校まで運ぶ。それだけが唯一にして最低最大の焦点だった。

 新しいクラスメイトになる年下の同級生の入学式の日、僕はスクールカウンセリングルームにいた。再三の登校を促されていた僕は復学の前日、ようやくにその部屋へと初めて行ったのだった。休学して実に七ヶ月近くが経っている。

 自称カウンセラーの先生は「明日の始業式からまあ気楽にな」といった旨のことをたしか言った。薄気味悪い部屋だった。ルービックキューブがあったり、ジェンガがあったり、心理系の本がいくつも置いてあったりした。児童館のような、あるいはなにかの施設のような、そんな場所。やっぱり俺はここに“通院”する必要はなかったなと、自分の感覚に自信を持てた場所。

 しかしだ。自分で決めたとはいえ、逃げ出したい気持ちでいっぱい。そしてその気持ちからも逃げられず袋小路にぽつねんとしていた。かつて在籍したクラスは二年に進級し、僕だけが残る三階の教室の真下に移動する。同い年の上級生らは工具で天井を開け、床を貫き、下からつねに見上げて、のこのこと来ては椅子に座る僕をのぞき嘲笑する。そんな映像さえも簡単に次第に立体的に思い浮かべるようになっていた。工業高校機械科なのだから、あながちアホな発想ではない。

 なぜこんなに苦しい思いまでしていやな学校に復学しなければならないのか。「なんとなく」という感覚の正体はなんなのか。さっさと定時制なり通信制に編入して心機一転やり直せばよかったのだ。そんな思いはしばらく消えることはなかった。

 始業式当日、僕は遅刻直前のギリギリを見計らって登校した。一年生の自転車置き場へと向かい自分のクラスの前へたどり着くと、クラスメイトの自転車の後輪の泥除けには略された学校の名前が印字された真新しいシールがほぼ同じ位置にみな貼られてある。発色鋭い真っ赤なシールが端から端までびっしりと並ぶ。しなびた緑色のシールの自転車を持つ僕は、端の数台を中央にそれぞれ少しづつ寄せ、すみませんという念とともに差し込んで、音を立てないようひっそりと止めた。泥棒の気分だ。留年するとはこういうことなんだろうと理解して、これから三年間ずっとそうかと絶望した。なにを始業するんだ。僕もその式に出るのか。この期に及んでまだそんなことを言っていた。 

 

 僕は経験者としてこの春新しくなる諸君に気の利いた言葉を贈るべきなのかもしれないけれど、申し訳ない、なにもない。「死にはしない」とか「好きにしてください」といったようなことしか思いつかない。

 ただ、「人間万事塞翁が馬」であるということは、後々みなが自分で気づくのだろうと察しがつく。その時はその馬に跨がればいい。どこにでも行けるようになる。