高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

黒い春でも、それは春

 中途半端な屈折、嘘に限りなく近い自殺願望、頭はもちろん良いわけではないが輝かしいほどに悪いわけでもなく、親や教師に、なにかの本で読んだ言葉を振りかざして、ひとりになれば自分の才能はなんだろうか、これなら、あれなら、だけれど、だけれどと、夢みたいなものや、淡い願望はいっちょまえにあったりする。

 青春とは、青くないね。青い、青かった、そういえる人は留年などしていない。すればやっぱりそれは黒い。

 人間、上には上がいる。そして、下にも下がいる。自称青の人も、また自称青の人の前では簡単にその価値観を揺らがせたりして、顔をまさに青くしたり赤くしたりするのだから、十代の色なんてものは、そもそも頼りない、うつりやすい色なのだ。だから、いま黒かろうが茶色かろうが気にすることはない。色があるのだ。ないよりは、もちろんいい。なかったら、これからいやでも色がつく。

 ぼくはもう、十代の人間の気持ちがわからなくなっている。よく、大人はそれを経ているのだから、そういう若者の気持ちがわかって当然で、若者は大人の気持ちがわかるわけがないといったような理屈を耳にするけれど、時代がちがう。十代のみんなのこと、俺はわかってるぜとかぬかす大人がいたらそれはもう信用してはならない。詐欺師でもなかろうが、ただのイタいやつ。大人、あるいは同年代の友人でさえも、だれもだれのことなどわかりっこない。親に理解されたいとか、もうそれはぼくは胸を張って諦観をススメる。諦めなさい。「人生なにごとも諦めてはいけないよ」と同等に、「人生諦めも肝心だ」である。

 ただ、応援されるような人になってほしいと、留年したみんなにはぼくから伝えたい。理解なんかされなくてもいいのだ。でも、だれもだれかを陥れようとか、自分の思うような道に進ませようとか、そんな親類ひいてはヒト、これはなかなかに存在はしないから大丈夫(もし万が一、そういう家で暮らし、抗えないのなら、逃げよう。家出。これしか道はない。家出という行為は素晴らしいよ。自立、自由、自分、『自ら』という言葉はカッコイイ)。応援してもらえるような姿を、見せようとしなくていい、ただ、やりたいことをやりたいようにやる。気がすむまでとことんやる。身の回りで、こんなことだれもやったことないだろうということを、自分がやる。

 新しい高校へ編入するにしろ、残ってまた同じ学年をやるにしろ、四年で卒業するということを掲げてやってみると、案外、卒業するんだなんてことはもう大したことのないミッションになっていて、もう卒業後の進路に対してのウォーミングアップをしたりなんかして、元々の同級生が大学で遊びまくっている最中、自分は留年で鍛え上げた精神でもって卒業後スタートダッシュかまして、茶髪にピアスの恋愛に忙しい彼ら彼女らを追い越しているかも。

  高校を出たところで、大学を出たところで、就職をしたところで、いっちょまえになるわけではないと思う。やりたいことがあって、それに気がついていて、素直にそれをやりはじめる。うまくいかない。恐怖。不安。絶望。でも、まだまだ俺は——。休憩しても、またやりはじめる。と、これがいっちょまえ、ではなかろうか。何百歩目のこと考えて一歩目を出せない人って、これもあまりいないと思う。『いっちょまえ』は『一歩前』の訛りである(たぶん)から、まず一歩だ。

 四月はどうも明るくていけない。虫や動物、どんどん土から出てくる。人間もたかだか生物なら、否が応でもそうなるか。

 未来のことなんてだれにもわからないわけだから、今晩のおかずだってなにかわからなかったりもするのだから、新しいクラス、新しい学校、これも行ってみないことには、どんな色してるかなんてわかりっこないね。

 

 新生活のその不安と希望と孤独はもはや従えてしまって、桃太郎のようにいざ、向かってゆけばいいのではないかしら。