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高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

◯◯さん

留年生活

 いまさら書くまでもないが、留年し、その学校にとどまり年下とクラスメイトになれば教室は当然に気まずく、人間関係の構築など夢のまた夢。これは、それを経験すればだれしもが抱く素朴な感想だと思う。

 たとえば、もう一度一年生をするとする(僕はこのパターンである)。新入生同士でもすぐには打ち解けられないわけで、しかしながら、同級生のことを、クラスメイトのことを「◯◯さん」と呼ぶ人間は皆無に等しいだろう。みなは、「◯◯くん」からはじまり、早速にシンプルなあだ名がつけられ、次第に苗字で呼び捨ても出来るようになり、ちょっと凝ったようなあだ名がまたつけられたり、最終的には下の名前で呼び捨てをし合うという、たしか友情とかいった、そんなものが級友と級友とのあいだに育まれる。そこに、なかなか留年生は入れない。

 もし、二年生や三年生をふたたびやるのだとしたら、もう出来上がっているクラスに“異物”が混入されるわけだから、もといるみなからの反応は、一年生のそれとはまた一味もふた味も違うと、想像に難くない。けれども、出来上がっているクラスというのは、ネガティブな要素よりもポジティブな要素のほうが上回るのではないかと、僕は考える。もちろん、ひとり年上の人間には疎外感は尋常ではなかろうけれども、すでにクラスのみなのそれぞれのキャラクターが粒立てられていて、みながお互いにお互いのことを知っているわけだから、明るい者が明るい者に背中を押され、新しいクラスメイトに話しかけもするだろうし、みなが高校生活に慣れている。新入生は不安で自分のことで精一杯で人のことなどかまっちゃいられない。二年生、三年生にもなれば、十五歳だった少年が、もう青年になろうとするいい年齢なわけで、この一、二年の差は大きい。それに加えて、そのクラスに結束っぽいものがあるのであれば(毎年クラス替えがあるのであれば話は変わるが)、受け入れは早いはずだ。

 その一方で、そうだからこそ、村八分にされる可能性もあるかもしれない。が、それはそれで助かるなという心理も働くと思う。実際に、それはそれで恩恵があるはず。妙にベタベタされるより、良いというものだ。年上はそうそうナメられるものでもないし、堂々としていれば大丈夫。別に犯罪者でもなければ乞食でないわけで、クラスのだれに迷惑かけるわけでもなし。一年、多く人生やっている分、ちょっとくらい威張っても、まあ高校時代くらい大丈夫。それくらいの気概もあれば素敵だという程度の話。

 いずれにしても、このクラスに自分を受け入れてくださいという姿勢はこちらには当然必要で、素直が一番、それがもっとも話が早い手段だろうことは明白。斜に構えていてもはじまらない。そうしてたいうちは、飽きるまでそうしてたほうがいいぞとは、僕は思うので、特に素直さをススメもしない。そして、斜に構えてろとは言う気もないので、これも忘れずにつけ加えておく。

 

 留年すると、「◯◯くん」とははじまらない。無論「◯◯さん」そして、卒業する時にも「◯◯さん」……かもしれない。

 もし万が一、僕の言っていることとは違うことが起こったら。つまり、いきなり「◯◯くん」から留年生活がはじまったら、「ジャニーズじゃないんだから」と、心の中でツッコむか、相手に直接、一発かましたらいい。もやもやは少し晴れるはずだから。そして、もし、卒業する時に、「さん」が取れて、下の名前で友情よろしく呼び捨てにされたり、ちょっと凝ったあだ名をつけられ愛されたならば、「俺は、あんたみたいな暗い留年生活、高校生にはならなかったぜ」と胸を張り、僕をからかったくれたまえ。

 

 僕の場合、二年生に進級する頃には二文字の名字のイニシャルを冠して「M◯さん」とみなから呼ばれ、三年生に上がってからは、◯が消されてイニシャルだけで「Mさん」。そして、卒業する時には「Mゥ〜」と呼ばれていた。くんとか、さんとか、そんなもの、気づけば簡単にはがれてどこかに落ちていたみたい。あくまで僕の経験した場合の話だ。