高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

留年と恋愛

 十代も後半になれば誰かを好きになったり、恋人ができたり、ほしくなったりと、そういう出来事や思いが芽生えるのがごく自然なことなのは言うまでもないけれど、それは一般的な高校生と同じように、留年した高校生も同じだ。

 留年の渦中にいると、自分は皆と比べて人間として劣っているだとか落伍者だとか本気の厭世観が育まれて仕方がないから、誰かに恋をしても、どうせ自分なんてとなるのがまあベタというか、一種のあるあるかなと考えられるなかで、その学校の環境によっても大きく違ってはくるが、同じ学校あるいは同じクラスでそういう関係になれたならば、留年している事実も受け入れてくれ、それと関係のない人間としての評価をしてくれたと言うことができ、ごくごく普通の青春を送れるのではないだろうか。留年しているとか、していないとか、カンケーなくねえ? なんて、地元の同級生なんかは言うのだろう。たしかに関係ない。が、自分を形成する重要な事実であることもたしか。自分で乗り越えるしかない。精神的にも、物理的にも。でないと、本当にカンケーなくはならないから。

 留年したら、まちがいなくモテる確率は激減する。少女漫画じゃないのだから、男であれ女であれ、年上の魅力だとかいうふざけた展開にはならない。なぜなら、現実的には、高校をダブるなんてどうかしてるからだ。

 かく言うぼくは、モテなかった。工業高校機械科でクラスに女子がひとりしかいなかったというのが、永遠のいいわけなのだが、普通科の学校だったらばモテるモテないの土俵にすら上れていなかったのではないかなと、振り返ると思う。なので、首を戻したいと思う。とはいえ、彼女がいたこともあった。相手は二つ年下の地元の後輩で、数ヶ月程度の付き合いを高二の終わりごろから高三の初夏までを経て、たわいもないテンプレートじみたよくある理由でぼくからお別れをした。在日朝鮮人だった彼女もまた、日本の人口からしたらマイノリティにあたる青春の日々を過ごしていたのだろうから、シンパシーめいたものを感じて留年している男に少し興味を持ってくれたのかもしれない。ダブったことよりも、ダブっても通っている事実がそのおかしな衝撃をはるかに凌ぐおかしさらしく、ぼくが二歳上で学年がひとつしか変わらないことはどうでも良かったらしい。

  留年したって恋愛していい。片思いでも、しているならばそのまましたほうがいい。当たって砕けてみたり、成就したり、普通に暮らせばいい。東大入学者だって自分に自信がない人はいるだろうし、高校を留年したって自分に自信を持っている人はいるはず。自分に自信がなくたって人に好かれたりもする。複数回同じ学年を過ごすことは、人生を留まることでは決してないから、どんどん進めていったらいいのではないだろうか。悲しい結果になっても、喜ばしい結果になっても、留年はカンケーない。