タレメーノ・カクの高校留年白書

高校ダブったらこうなるぞ!!

イジメに遭っていたのか、不良だったのか、いずれにしても血生臭い

 とある漫画の話。

 担任教師から留年しそうな不良生徒へ、警鐘を鳴らす場面がある。

 

 

「お前、このままじゃ卒業できんぞ。ただでさえ成績悪いのに身上書にまでキズ付けて、そんなにココ(学校)が好きか、お前? 後輩にクン付けで呼ばれる覚悟はしとるのか?」

「先生よー、ウルトラ警備隊っての? あれは偏差値どんくらいあれば入れるの?」

 

 

 松本大洋さんの『青い春』という作品。美しい漫画であり、格好いい映画にもなった。

 

 ぼくは休学していたのでこの場面を実際には経験していない。電話口の向こうで担任に言われたかもしれないが、担任は女性だったのでこういうことを言われたとは考えにくい。

 当時の担任は、ぼくがイジメに遭っていると思っていると感じられる節があった。それを先生は母に言うわけだ。すると、母がぼくに言うわけだ。

「あんた、イジメにおうとるん? 情けないね、男のくせに。学校行ってやり返してきんさいや、云々」

 ぼくはイジメには遭っていはなかった。そう認識している。だが、担任の言葉によって休学中のぼくは、イジメられていたのかと認識を改めそうにもなりかけた。ぼくがいない教室で、担任はみなに聞いたのかもしれない。そこで何かしらが明るみになったのかもしれない。たしかに、野蛮で陰険なクラスメイトは何人かいて、その存在に心が苛まれることは日々あった。

 ぼくが脳内でツバをかけた彼らがいま、家庭を持ち、ファミリーカーに乗って、社会的地位を得て、地域の人々に信用され生きているとしても、ぼくは会いたくない。そういう奴らはたしかにいたが、奴らにぼくの人生を変えられるだけの影響力はなかったように思う。そうだ、それは絶対にない。

 

 マッチョ信仰のある工業高校だったが故に、もし担任が男であったらば、ぼくは引きずり出されていたかもしれない。ラグビー部にでも入れられて、明日に向かって走らされていたかもしれない。母いわく、担任が女性だから、我が家には父親がいないから。だから、ぼくは甘えて調子に乗っているのだそう。これはチャンチャラおかしい。高校を三年で卒えている人間が言うものとは思えないほどに、理論も叙情もない。

 担任は休学中もよく電話をくれたし、世間話だけをしてくれたりもして、女性らしい丸みを帯びた対応をしてくださったとぼくは感じている。何の落ち度も先生にはない。男ばかりの荒々しい教室で親よりも若い彼女は日々消耗しながらも、気にかけてくれていたのだ。母には物足りないのかもしれないが、彼女は母の担任ではない。

 そして、父親がいたとすると、ぼくにとっては死だったはずだと考えられる。文字通り、死んでも通学しなければならなかっただろうからだ。ぼくはいま生きている。父がいなかったからだ。

 イジメはどこで遭うかわかったものではない。学校だけで起こるものだと認識している親は、ちょっと怖い。

 

『青い春』でウルトラ警備隊に入るための偏差値を知りたがった彼は結局、調子に乗っている友人を学校のトイレの個室内で刺し殺し、その後階段に座り煙草を吸っているところで例の担任が現れ、

「校内で喫煙とは大した根性だ。覚悟はできとるのか?」

「ピース」

 と口にし、二本の指を出す。

 映画版では、煙草のシーンの後、学校に駆けつけた警察に連行される。

 

 ぼくは不良でもなかった。

 不良を“やる”気持ちもわからない。他人からすればサッカー少年という評だったろうか。だけれど、殺人者になった彼の胸の内がひどくわかってしまう。違和感の奴隷になり自分に逆らい学校にいれば、だれかを刺すか、自分を刺すか……そうだったにちがいない。ハンマーを振りかぶった叔父にぼくは殺されそうにもなったわけで。

 留年を前にすると、体から何かしらの液体が必ず漏れる。透明だったり、赤かったり、黄色かったり。溜め込んでも溜め込んでも、最終的になにかは出る。イジメに立ち向かうも、逃げるも、好きにしてほしい。自分の人生、自分のやりたいようにしかできない。という、常套句を書くのもぼくは好きではない。

 相手にするな。いろいろな人間がいて、世界は広い。許せないないなら、許さなくてもいい。狭い島で、小さい人間の相手になるな。海は広いし大きいのだ。あれは嘘でも誇張でもない。自分の島を探して泳ぎたまえ。頭のおかしな人は次第に、自分の目の中には存在しなくなる。認識だ。この世界は自分の認識でできている。泳げなくてもいい。泳ぐことが目的ではないから。合う合わないは程度の差こそあれど、どこに行っても必ずある。大人になったってそうだし、仕事も、会社も、友人関係も、恋愛関係にも、なんにだってある。ただ、世界はひとつじゃないことを知ろうじゃないか。流した汗は嘘をつかないというのは文科省推奨の宗教であって、それを信じられる人はいいものを食べて育ったのだなと思うぼくには、これはどうも照れくさい。だから、こう言おう。

 匂う血生臭さは嘘をつかない。

 イジメに遭っても、人をイジメてはいけない。人に刺されても刺し返してはいけない。人に刺されそうになって、逃げられない時は、その時は刺してしまおう。正当防衛だ。休学、留年だってそうだろう。

 なにが悪い。なにも悪くないじゃないか。

 

 

 

体調の問題

 ぼくの体はいたって健康だった。

 病気や怪我などの治療のために休学を余儀なくされ留年に至ってしまった人からすれば、なんて贅沢な頭の悪い野郎だと思うだろう(これはぼく自身、当時も現在も認めている)。この療養でというパターンは、偏差値の比較的高め乃至は最高レベルの進学校において時折起こると、そう耳にする。そうでない高校でもあるにはあろうが、それまでの暮らしぶり、頭脳と肉体の乖離、想像の域を越えないけれど、なんとなく理由はわかる気がする。

 ぼくはこれに当てはまらない。進学校で留年するという、非常に相容れないこの状況はやはり体験しないと、忖度しかねる。ぼくの体に問題はなかった。

 が、一度目の高校一年の夏に一週間入院をしている。急性胃腸炎だった。無論、人生が変わってしまうほどの病気ではない。夏休みだ。出席日数も関係ない。腹はすっかり良くなった。当時のぼくからすれば、「良くなってしまった」と言う方が精巧である。医者が言うように精神的トラブルがあったように思う。その診断に対して、揶揄するようにぼくを祭り上げた慇懃無礼な母に、とにもかくにも疲弊した。

「いまお前が抱えているものは、病原菌ではないよ、そして、弱さでもないよ」と過去の自分に言ってあげられるのが未来人として持つべきホスピタリティーだろうか。

 入院中、病院を抜け出してブリーチ剤をコンビニで買い、戻ってきた病院のトイレで坊主頭を金色にするのだから、心に問題があったことはあったのだろう。

 退院して、すぐに部活を辞めた。二学期は九月に数回行っただけで、それからは休学届けを出し無断欠席することなくしっかりと家にいた。入院はある意味で引き金を引いたような恰好ではあるものの、決して病気療養のための不登校ではない。学校に行きたくても行けなかった人と、ぼくは違う。であるから、ただのだらしのない奴と思われても仕方がない。それで結構。けれど、だらしがないとは一味違うとぼく自身は思っていた。

 

 「すぐれた魂ほど、大きく悩む」

 

 小説家坂口安吾がそう書き残している。

 のちにこの言葉に出会ったとき、自分の魂がまさかすぐれているとは到底思えなかったが、何故か照れくさいような怪奇かつ素朴な感情を持った。

 

 

志望校であったか否か

 推薦入試で合格した。ぼくはその公立高校へ入学することになる。

 試験は面接と作文。一般入試であったとしても、その高校はぼくにとって不安になるような偏差値を求めてはいないらしかった。進学校ではない。工業高校だ。

 県内にあるすべての工業高校の中でも、そこはその道に進みたい人間にとって最も魅力的なブランド価値があるらしいことは知っていた。自動車メーカーの本社があるその郷里で、そこを卒えればみな就職に困ることはほとんどないようだった。なにせ、県内の工業畑を取り仕切っている多くがその高校のOBだ。高専や工業系の大学に進む者にとっても、そこでの三年間は有利に働くらしい。

 入学前年の地元最大の祭りで、機動隊と衝突し、逮捕、補導された暴走族の中に、その高校の生徒が多くいた。全国ニュースにもなり、彼らのような暮らしに憧憬を見る中学生も、その高校への入学を志望したかもしれない。

 運動部も全般強かった。全国大会常連の部もあれば、それに次ぐレベルにある部も多くあり、部活動が目的で志望した生徒もかなりいた。

 ぼくはといえば、志望校では決してなかった。行きたいと思えたところの受験すらできなかった。成績も、内申も、サッカーの実力も、努力も、すべてが足りず、補えなかっただけだ。だから、ただの身の丈知らずであっただけだと言える。できなかったのではない、しなかったのだ。

 それ以外に行きたいところがあるかといえば、ひとつもなかった。さまざまな理由や、自分が望む条件が重なり、最終的には自分で進学先を決めた。喜び勇んで桜の下を通ったわけではない。しかも、ぼくが行きたかった高校は、ぼくが行かなければならない高校の壁一枚を隔てて隣にある。そんなことある? あったのだ。隣とはよく表現されるだろうが、本当に外壁一枚で隣り合っている。

 希望も、展望も、想像も、夢も、はじめからなかった。春なのに、明日ぼくはどこへ行くのだろうと思っていた。学ランがなんだか借り物みたいで、毎朝自分が自分なのかも疑っていた。隣の元志望校も非常に似通った学ランであるのに。

 

 振り返ってみると、その志望校とやらもいま思えば怪しい臭いがする。本当にそこが良かったのか。なにがどうで、そこでなければならなかったのか。『人間万事塞翁が馬』であるということを知るには、当時のぼくにはもう少し時間が必要だった。

 

 たしかに、ぼくが進んだのは志望校ではなかった。

 

 工業にまるで興味はなかったし、理数系は爬虫類と同等に苦手であるし、現にぼくは工業の仕事に就いたことはない。だが、ぼくはそこに行く必要、卒業する必要が、途中で生まれた。留年は褒めてもらえるようなことではもちろんないけれど、卒業した自分はすごいと思う。いまのぼくは当時のぼくに感謝している。望んで進んだ高校でないからこそ、その後の休学へ繋がったのは因果の種としてまちがいない。ただ、望んで進んだ高校で望み通りの生活が送れるかどうかは、なんの保証もないだろう。人生はどうやら選択の連続らしい。いつもいつも、自分の望み通りにはならないし、どういうわけか不可抗力に首肯しなければならない場面もあったりする。事実はただの事実。あとは、自分の精神だけが頼みの綱だ。

 志望校であったか否かは、留年に関係はない。志望校であったか否かは、その時にはもう過去のことである。意味を持っていない。妙な意味を持たせてもどうだか。 であるから、それはもう忘れるべし。できなければ、行きたかった高校へいまから編入するのが賢明だろう。

 

 

 

 

 

留年とは

 日の出に夢を見、希望に満ち溢れているような方、そのままで結構でございます。新春のお慶び申し上げ、ぼくはこれで貴方様の前からお暇させていただきます。

 

 年なんか明けてくれるなと思っている、暗い青春の只中をさまよう高校生諸君に告ぐ。明けましておめでとう。明けてしまったものは仕方がない。時間は自分の手で開閉できるものではない。けれども、退学するか、留年しても通うかは自分で決めることができる。たとえ、親の意向や権力があったとしてもだ。なぜなら、行くも行かないも、君の人生だからである。

 ぼくは十三年前、とある政令指定都市内に建つ全日制高校を十九歳で卒業した。高校一年生を二回やったことになる。

 高校三年生のときに、元々の同級生は大学生であったり、社会人であったりした。入学、サッカー部入部、入院、退院、サッカー部退部、休学、自主退学希望申請、復学、留年、卒業。ぼくの高校生活四年間という時間をひらがなを入れず説明するとこんな具合だ。非常に恥ずかしい話であると、三十を過ぎたぼくは認識している。だが、誇らしい経歴であるということも事実なわけで。

 なにも自虐を披露したいわけではない。自慢話をしたいわけでもない。ただ、『留年』という言葉が他人事ではない君にこれから少しずつ、話がしたいだけだ。

 先に、結論を記しておく。

 留年しそうな君、寝る間も惜しまず課題に取り組み、絶対に進級したまえ。留年してよいことなどひとつもない。三年で卒業するのが良いに決まっている。

 留年が決まった君、退学するもやり直すも君が決めたまえ。どちらの選択にも苦難があり、重大な出会いがあるだろう。

 留年が決まり退学をする君、よくぞ決断した。学歴など関係ない職に就けばよいし、あるならばまた勉強し直し、高校卒業程度認定試験を受け、大学に行けばよい。ただ、それだけの話だ。働かない場合でも独学でなにかを得ればよい。

 留年が決まり意志もなく年下だらけの教室に迷い込もうとする君、辞めたくなれば辞めればよい。とりあえずでも行くなら行けばよい。

 ぼくは占い師ではないので、責任を持って言う。留年とは、日の出である。どんな一日になるかなど、そのときはまだわからない。それは、自分の人生を考える、デザインする、感じるにはもってこいのとっておきの明かりになる。いま、君が布団の中で黒くうずくまっていてもだ。止まない雨はあると思う。明けない夜もあると思う。だが、留年自体は日の出でまちがいない。原級留置などと罪名のように言う人間など、視界に入れなくてよろしい。美しいものを目にいれたまえ。

  留年が決まり年下同級生に囲まれ、さん付けで呼ばれる覚悟を、ダブりと囁かれる覚悟を決めた君、必ずや卒業してやろうじゃないか。 

  ぼくは高校卒業直前、叔父にこう言われた。

「おまえが学校辞めるじゃ行かんじゃあて暴れよった頃は、わしもええ加減腹たってのう。おまえには父親がおらんけえ、わしが言うたらにゃあ思うて、高校ぐらい出んでどうするんならあ、辞めるな行けや言うて、おまえのことシバきまわしてしもうたけど。いまじゃけえ、ほんまのこと言うわ。まさかほんまに卒業するとは思わんかった。もし、わしじゃったら途中で辞めとる。よう行かん。おまえ、すごいわ」

 かつてその叔父にハンマーを振りかぶられたとき、祖父の仏壇の前で十五歳のぼくは恐怖のあまり小便をもらした。シバくどころではない、殺人未遂だ。仏さんの前で仏さんになるというマヌケになりかけた。ここで誤解してほしくないことがひとつある。親戚に脅されて復学したわけではないということだ。ハンマーはなんの関係もない。そして、もうひとつ付け加えて言うと、ぼくが卒えた公立高校は、かつての叔父が志望するも学力的に諦めたところであったらしいということ。卒業する直前の上記のセリフ。実に痛快であった。

 

 さまざまな理由、家庭環境、学校環境などがあると思う。人それぞれに違うだろう。ぼくが病弱であったのか、いじめにあっていたのか、学力の貧困であったのか、不良であったのか、引きこもりであったのかはまた。

 これから随時、自分の経験を振り返り高校留年について考えてみたいと思う。大学を留年するのとは、ひと味もふた味もわけが違うのだ。

 留年にあえぐ諸君、ぼくに理解されたいと思うべきではない。理解されてたまるかという気持ちで読んでもらえれば幸いだ。