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高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

イジメに遭っていたのか、不良だったのか、いずれにしても血生臭い

 とある漫画で、担任教師から留年しそうな不良生徒へ、警鐘を鳴らす場面がある。

「お前、このままじゃ卒業できんぞ。ただでさえ成績悪いのに身上書にまでキズ付けて、そんなに学校(ココ)が好きか、お前? 後輩にクン付けで呼ばれる覚悟はしとるのか?」

 それに対して、

「先生よー、ウルトラ警備隊っての? あれは偏差値どんくらいあれば入れるの?」と返す、二人きりの教室でのやりとりがある。

 松本大洋さんの『青い春』に描かれたあるひとつの話だ。映画化もされ、この場面もより立体的になった。美しい漫画であり格好いい映画である。

 

 僕は休学していたのでこの場面を実際には経験していない。電話口の向こうで担任に言われたかもしれないが、担任は女性だったのでこういうことを言われたとは考えにくい。

 当時の担任は、僕がイジメに遭っていると思っていると感じられる節があった。それを先生は母に言うわけだ。すると、母が僕に言うわけだ。

「あんた、苛めに遭っとるん? 情けないね、男のくせに。学校行ってやり返してきんさいや、云々」

 僕はイジメには遭っていなかった。そう認識している。だが、担任の言葉によって休学中の僕は、イジメられていたのかと認識を改めそうにもなりかけた。僕がいない教室で、担任はみなに聞いたのかもしれない。そこで何かしらが明るみになったのかもしれない。たしかに、野蛮で陰険なクラスメイトは何人かいて、その存在に心が苛まれることは日々あった。僕が脳内でツバをかけた彼らがいま、家庭を持ち、ファミリーカーに乗って、社会的地位を得て、地域の人々に信用され生きているとしても、僕は会いたくない。そういう奴らはたしかにいたが、奴らに僕の人生を変えられるだけの影響力はなかったように思う。そうだ、それは絶対にない。

 

 マッチョ信仰のある工業高校だったが故に、もし担任が男であったらば、僕は引きずり出されていたかもしれない。ラグビー部にでも入れられて、明日に向かって走らされていたかもしれない。母いわく、担任が女性だから、我が家には父親がいないから。だから、僕は甘えて調子に乗っているのだそう。これはチャンチャラおかしい。高校を三年で卒えている人間が言うものとは思えないほどに、理論も叙情もない。

 担任は休学中もよく電話をくれたし、世間話だけをしてくれたりもして、女性らしい丸みを帯びた対応をしてくださったと僕は感じている。何の落ち度も先生にはない。男ばかりの荒々しい教室で親よりも若い彼女は日々消耗しながらも、気にかけてくれていたのだ。母には物足りないのかもしれないが、彼女は母の担任ではない。

 そして、父親がいたとすると、僕にとっては死だったはずだと考えられる。文字通り、死んでも通学しなければならなかっただろうからだ。僕はいま生きている。父がいなかったからだ。

 イジメはどこで遭うかわかったものではない。学校だけで起こるものだと認識している親は、怖い。

 

『青い春』でウルトラ警備隊に入るための偏差値を知りたがった彼は結局、調子に乗っている友人を学校のトイレの個室内で刺し殺し、その後階段に座り煙草を吸っているところで例の担任が現れ、

「校内で喫煙とは大した根性だ。覚悟はできとるのか?」

「ピース」と口にし、二本の指を出す。

 映画版では、煙草のシーンの後、学校に駆けつけた警察に連行される。

 

 僕は不良でもなかった。不良を“やる”気持ちもわからない。他人からすればサッカー少年という評だったろう。だけれど、殺人者になった彼の胸の内がひどくわかってしまう。違和感の奴隷になり自分に逆らい学校にいれば、だれかを刺すか、自分を刺すか……そうだったに違いない。ハンマーを振りかぶった叔父に僕は殺されそうにもなったわけで。

 留年を前にすると、体から何かしらの液体が必ず漏れる。透明だったり、赤かったり、黄色かったり。溜め込んでも溜め込んでも、最終的になにかは出る。イジメに立ち向かうも、逃げるも、好きにしてほしい。自分の人生、自分のやりたいようにしかできない。という、常套句を書くのも僕は好きではない。

 相手にするな。いろいろな人間がいて、世界は広い。許せないないなら、許さなくてもいい。狭い島で、小さい人間の相手になるな。海は広いし大きいのだ。あれは嘘でも誇張でもない。自分の島を探して泳ぎたまえ。頭のおかしな人は次第に、自分の目の中には存在しなくなる。認識だ。この世界は自分の認識でできている。泳げなくてもいい。泳ぐことが目的ではないから。合う合わないは程度の差こそあれど、どこに行っても必ずある。大人になったってそうだし、仕事も、会社も、友人関係も、恋愛関係にも、なんにだってある。ただ、世界はひとつじゃないことを知ろうじゃないか。流した汗は嘘をつかないというのは文科省推奨の言葉であって、それを信じられる人はいいものを食べて育ったのだなと思う僕には、これはどうも照れくさい。だから、こう言おう。

 匂う血生臭さは嘘をつかない。イジメに遭っても、人をイジメてはいけない。人に刺されても刺し返してはいけない。人に刺されそうになって、逃げられない時は、その時は刺してしまおう。正当防衛だ。休学、留年だってそうだろう。

 なにが悪い。なにも悪くないじゃないか。

 

 

 

体調の問題

 僕の体はいたって健康だった。病気や怪我などの治療のために休学を余儀なくされ留年に至ってしまった人からすれば、なんて贅沢な頭の悪い野郎だと思うだろう(これは僕自身、当時も現在も認めている)。この療養でというパターンは、偏差値の比較的高め乃至は最高レベルの進学校において時折起こると、そう耳にする。そうでない高校でもあるにはあろうが、それまでの暮らしぶり、頭脳と肉体の乖離、想像の域を越えないけれど、なんとなく理由はわかる気がする。

 僕はこれに当てはまらない。進学校で留年するという、非常に相容れないこの状況はやはり体験しないと、忖度しかねる。僕の体に問題はなかった。

 が、一度目の高校一年の夏に僕は一週間入院をしている。急性胃腸炎だった。無論、人生が変わってしまうほどの病気ではない。夏休みだ。出席日数も関係ない。腹はすっかり良くなった。当時の僕からすれば、「良くなってしまった」と言う方が精巧である。医者が言うように精神的トラブルがあったように思う。その診断に対して、揶揄するように僕を祭り上げた慇懃無礼な僕の母に、僕は至極疲弊した。

「いまお前が抱えているものは、病原菌ではないよ、そして、弱さでもないよ」と過去の自分に言ってあげられるのが未来人として持つべきホスピタリティーだろうか。入院中、病院を抜け出してブリーチ剤をコンビニで買い、戻ってきた病院のトイレで坊主頭を金色にするのだから、心に問題があったことはあったのだろうけれど。

 退院して、すぐに部活を辞めた。二学期は九月に数回行っただけで、それからは休学届けを出し無断欠席することなくしっかりと家にいた。入院はある意味で引き金を引いたような恰好ではあるものの、決して病気療養のための不登校ではない。学校に行きたくても行けなかった人と、僕は違う。であるから、ただのだらしのない奴と思われても仕方がない。それで結構。けれど、だらしがないとは一味違うと僕自身は思っている。

 「すぐれた魂ほど、大きく悩む」小説家坂口安吾がそう書き残している。のちにこの言葉に出会ったとき、自分の魂がまさかすぐれているとは到底思えなかったが、何故か照れくさいような怪奇かつ素朴な感情を持った。

 

 

 

 

志望校であったか否か

 推薦入試で合格した。僕はその公立高校へ入学することになる。

 試験は面接と作文。一般入試であったとしても、その高校は僕にとって不安になるような偏差値を求めてはいないらしかった。進学校ではない。工業高校だ。

 県内にあるすべての工業高校の中でも、そこはその道に進みたい人間にとって最も魅力的なブランド価値があるらしいことは知っていた。自動車メーカーのあるその郷里で、そこを卒えればみな就職に困ることはほとんどないようだった。なにせ、県内の工業畑を取り仕切っている多くがその高校のOBだ。高専や工業系の大学に進む者にとっても、有利に働くらしい。

 入学前年の地元最大の祭りで、機動隊と衝突し、逮捕、補導された暴走族の中に、その高校の生徒が多くいたことも事実としてある。全国ニュースにもなり、彼らのような暮らしに憧憬を見る中学生は、その高校への入学を志望したかもしれない。

 運動部も全般強かった。全国大会常連の部もあれば、それに次ぐレベルにある部も多くあり、部活動が目的で志望した生徒もかなりいた。

 僕はといえば、志望校では決してなかった。受験すらできなかった。成績も、内申も、サッカーも、努力も、すべてが足りず、補えなかっただけだ。だから、ただの身の丈知らずであっただけだと言える。できなかったのではない、しなかったのだ。それ以外に行きたいところがあるかといえば、ひとつもなかった。さまざまな理由や、自分が望む条件が重なり、最終的には自分で進学先を決めた。喜び勇んで桜の下を通ったわけではない。しかも、僕が行きたかった高校は、僕が行かなければならない高校の壁一枚を隔てて隣にある。希望も、展望も、想像も、夢も、はじめからなかった。明日、僕はどこへ行くのだろうとさえ思っていた。学ランが人の借り物みたいで、毎朝自分が自分なのかも疑っていた。隣の元志望校も非常に似通った学ランであるのに。

 

 振り返ってみると、その志望校とやらもいま思えば怪しい臭いがする。本当にそこが良かったのか。なにがどうで、そこでなければならなかったのか。『人間万事塞翁が馬』であるということを知るには、当時の僕にはもう少し時間が必要だった。

 たしかに、僕が進んだのは志望校ではなかった。工業にまるで興味はなかったし、理数系は爬虫類と同等に苦手であるし、現に僕は工業の仕事に就いたことはない。だが、僕はそこに行く必要、卒業する必要が、途中で生まれた。留年は褒めてもらえるようなことではもちろんないけれど、卒業した自分はすごいと思う。いまの僕は当時の僕に感謝している。望んで進んだ高校でないからこそ、その後の休学へ繋がったのは因果の種として間違いない。ただ、望んで進んだ高校で望み通りの生活が送れるかどうかは、なんの保証もないだろう。人生はどうやら選択の連続らしい。いつもいつも、自分の望み通りにはならないし、どういうわけか不可抗力に首肯しなければならない場面もあったりする。事実はただの事実。あとは、自分の精神だけが頼みの綱だ。

 志望校であったか否かは、留年に関係はない。志望校であったか否かは、その時にはもう過去のことである。意味を持っていない。 であるから、それはもう忘れるべし。できなければ、行きたかった高校へいまから編入するのが賢明だろう。

 

 

 

 

 

留年とは

 日の出に夢を見、希望に満ち溢れているような方、そのままで結構でございます。新春のお慶び申し上げ、僕はこれで貴方様の前からお暇させていただきます。

 

 年なんか明けてくれるなと思っている、暗い青春の只中をさまよう高校生諸君に告ぐ。明けましておめでとう。明けてしまったものは仕方がない。時間は自分の手で開閉できるものではない。けれども、退学するか、留年しても通うかは自分で決めることができる。たとえ、親の意向や権力があったとしてもだ。なぜなら、行くも行かないも、君の人生だからである。

 僕は十三年前、とある政令指定都市内に建つ全日制高校を十九歳で卒業した。高校一年生を二回やったことになる。高校三年生のときに、元々の同級生は大学生であったり、社会人であったりした。入学、サッカー部入部、入院、退院、サッカー部退部、休学、自主退学希望申請、復学、留年、卒業。僕の高校生活四年間という時間をひらがなを入れず説明するとこんな具合だ。非常に恥ずかしい話であると、三十を過ぎた僕は認識している。だが、誇らしい経歴であるということも事実なわけで。

 なにも自虐を披露したいわけではない。自慢話をしたいわけでもない。ただ、『留年』という言葉が他人事ではない君にこれから少しずつ、話がしたいだけだ。

 先に、結論を記しておく。

 留年しそうな君、寝る間も惜しまず課題に取り組み、絶対に進級したまえ。留年してよいことなどひとつもない。三年で卒業するのが良いに決まっている。

 留年が決まった君、退学するもやり直すも君が決めたまえ。どちらの選択にも苦難があり、重大な出会いがあるだろう。

 留年が決まり退学をする君、よくぞ決断した。学歴など関係ない職に就けばよいし、あるならばまた勉強し直し、高校卒業程度認定試験を受け、大学に行けばよい。ただ、それだけの話だ。働かない場合でも独学でなにかを得ればよい。

 留年が決まり意志もなく年下だらけの教室に迷い込もうとする君、辞めたくなれば辞めればよい。とりあえずでも行くなら行けばよい。

 僕は占い師ではないので、責任を持って言う。留年とは、日の出である。どんな一日になるかなど、そのときはまだわからない。それは、自分の人生を考える、デザインする、感じるにはもってこいのとっておきの明かりになる。いま、君が布団の中で黒くうずくまっていてもだ。止まない雨はあると思う。明けない夜もあると思う。だが、留年自体は日の出で間違いない。原級留置などと罪名のように言う人間など、視界に入れなくてよろしい。美しいものを目にいれなさい。

  留年が決まり年下同級生に囲まれ、さん付けで呼ばれる覚悟を、ダブりと囁かれる覚悟を決めた君、必ずや卒業してやろうじゃないか。 

  僕は高校卒業直前、叔父にこう言われた。

「おまえが学校辞めるじゃ行かんじゃあて暴れよった頃は、わしもええ加減腹たってのう。おまえには父親がおらんけえ、わしが言うたらにゃあ思うて、高校ぐらい出んでどうするんならあ、辞めるな行けや言うて、おまえのことシバきまわしてしもうたけど。いまじゃけえ、ほんまのこと言うわ。まさかほんまに卒業するとは思わんかった。もし、わしじゃったら途中で辞めとる。おまえ、すごいわ」

 ハンマーを振りかぶられたとき、祖父の仏壇の前で十五歳の僕は恐怖のあまり小便をもらした。シバくどころではない、殺人未遂だ。仏さんの前で仏さんになるというマヌケになりかけた。ここで誤解してほしくないことがひとつある。親戚に脅されて復学したわけではないということだ。ハンマーはなんの関係もない。そして、もうひとつ付け加えて言うと、僕が卒えた公立高校は、かつての叔父が志望するも学力的に諦めたところであったらしいということ。卒業する直前の上記のセリフ。実に痛快であった。

 

 さまざまな理由、家庭環境、学校環境などがあると思う。人それぞれに違うだろう。僕が病弱であったのか、いじめにあっていたのか、学力の貧困であったのか、不良であったのか、引きこもりであったのかはまた。

 これから随時、自分の経験を鑑み高校留年について考えてみたいと思う。大学を留年するのとは、ひと味もふた味もわけが違うのだ。

 留年にあえぐ諸君、僕に理解されたいと思うべきではない。理解されてたまるかという気持ちで読んでもらえれば幸いだ。