タレメーノ・カクの高校留年白書

高校ダブったらこうなるぞ!!

留年とアルバイト

 アルバイト先に自分と同い歳の高校生がいる場合。

 その職場の先輩なり社員なり店長なり、あるいは全員にあることをいわれる。一年を通して折に触れあるのだが、なかでも春が近づくにつれてその頻度は激しく上がり、全員に同じことを聞かれては答える。

 

 「◯◯君って△△さんと同い歳だよね? じゃあこんど卒業だね。どこの大学に?」

 

 こちとら留年で来年度もまだ高校生なわけ。この問答。面倒で面倒で心はみるみる疲弊する。

 大人からしたら大したこととは感じないし、当事者でなければ「気にすることなんかないじゃん」「ダブったのはお前の問題なんだから、なんで周りが気を使ってそこまで考えて話さなきゃならんのじゃ」という話になるだろう。それでかまわない。本人からしたらそこにストレスを感じて、誰がどうではなく、内省するんですということがここではいいたいだけ。

 とはいえ、店長にまでも「あれ、◯◯君も二月いっぱいで退職か〜」などといわれると、卒業予定は来年度なのに「そうなんです〜」と返したくもなる。

 「留年してんの、面接ん時言ったじゃん! ジジイこのやろう!」と体内の慟哭は止まらない。

 

 同い歳の高校生アルバイトが自分と同じ高校でもあった場合の店長はなおうっとうしい!

 「◯◯君って△△君と同い年で同じ高校なんだよね? △△君、修学旅行でこの日からこの日まで出勤できませんって報告あったけど、◯◯君シフト希望いつでも出れますってなによ〜。休みにしとくよ? それとも、修学旅行行かずにここで働きたいってことかな? それは助かるな〜!」

 全然おもしろくない。

 さらに、アルバイト先が地元の場合は煩わしさに囲まれる!

 もちろん中学の同級生が来るような飲食店などでのアルバイトはその精神的負担を想像するに難くないから避けるのだけれども、油断あるいは考えが及ばずにスーパーマーケットで働くことを決めてしまった場合、同級生はコンビニに行きがちだから来なくとも、その親が来る。週に何度も来る!

 

 「◯◯君、高校出てもここでバイト続けてるんだ〜! いまどこの大学なの〜?」

 

 「◯◯君、このあいだ自転車乗ってるの見かけたんだけど、なんで学ラン着てたの? 大学で応援団でもやってるの? うちの娘も大学でサークルが忙し……」

 

 「◯◯君はえらいね。なんでですかって、髪の毛も染めないでアルバイト続けてしっかりしてるからよ〜。うちの息子は高校出てすぐ頭茶色くしてね〜なんかチャラチャラしてこないだも……」

 

 とこんな具合。

 噂なんてすぐ広まるのだから、一回誰かに言ったら広めといてくれよと思うのが人情ってもの。が、他人に期待しているようでは人間まだまだ。

 留年していることなんて、所詮一般的ではなくって、当事者とその家族以外にはよく分からない非現実的なことなのだから、もうピエロにでもなって、

「そうなんです。ぼくいま◇◇大学の応援学部でアルプススタンド専攻してるんです。ゴール裏はちょっと軟派なんでね〜。下駄でも履いて、ススキでもあれば口にくわえたいくらいですよ〜」とかいってればいい。

 おばさん達とまじめに話したところでどうにもならない。

 人目につかない職種もいいし、人目につく職種もいいし。みなそれぞれ自分が思うようにしたらいいわけだけれど、人間一つでは語れない。多面的な自分というものを認め、また作りながら、それをまるで他人のように客観視して、適当に楽しめばよろしい。稼いだお金で本でも買いましょう。 

 

 

 

 

 

 

留年と昼食

 弁当を持って行くという習慣はぼくにはなかった。コンビニでなにかを買って行くか、購買でパンでも買うか、学食で食べるか、ということになる。

 留年し年下の中にひとり年上である人間にとって、クラスの皆と打ち解けていないうちはすべてが地獄の沙汰であるのだけれども、日常においてはなかでもとりわけこの昼休憩が、まあツラい。

 容易く想像できる。教室で弁当を食べれば「あの人ダブってるけど、親の作る弁当食べるんだ」となるし、コンビニのものを食べれば「ダブるとやっぱり孤独なんだな」となるし、購買にパンを求めて行けば「おい、下級生、元気にしてんのか?」と元同級生に見つかるし、学食に行けば「ダブってんのにカツカレー食ってんじゃねえ」となる。だろうと、当時のぼくは考えて、二度目の一年生がはじまって一学期のほとんどは、学校の外で食べていた。

 その春から夏までの三分の一は早退していたから、その分は家でということなんだけれど、そうでない日は、昼の鐘が鳴ればすぐに財布を持って学校の外へ出る。歩いて五分ほどにあるコンビニへ行く。いくつもの雑誌を立ち読みして飽きたらパンを買い、歩きながら頬張ったり、道端のベンチのようでベンチでないようなものへ腰掛けて食べてお茶を飲んではボケっとしたり。周囲から見ればどうしたって暗い正午になる。

 当の本人とすれば、学食や教室にいるよりはるかにマシであるから、これで随分機嫌がよかったりした。ぼくもいまこうして書きながら、どこか他人事でこの子はどうなのと思いつつ、しかしながら、周りがどう見ようが自分が良ければいいのである。歩きながら食べるにはサンドイッチは向いていない。レタスが落ちて、マーキングしているようになってしまうから、オススメはやっぱりソーセージパン。コーンパンはダメ。

 

 さて、そんな生活もいずれ飽きる。だって、外に出るのが面倒になってくるし、雨の日だってある。いつの間にか朝買っておいたパンを教室で食べてたり、誰かが話しかけてきてくれたり。ぼくの場合は一年生(二度目)の二学期の半ばぐらいから、そうなったのではと記憶している。学食に行くのはそれからまだまだ時間を要した。

 社会人でもトイレにこもって弁当を食べる人間がいるとかいないとか聞いたことがあるが、自分が在籍している世界の外に出たほうがいいだろう。

 いろんな人が歩いているし、いろんな人が働いている。学校にいない人たちのことを見ながら、なにか少しでも口に入れ、他者の姿を通して自分を見つめたらいい。小さな世界の小さなトイレにずっといたら、小さいアウトプットしかできなくなる。なにより不味い。外で食べればなんでも美味しい。居場所は外でいくらでも作れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

留年した生徒の退学率あるいは卒業率

 自分が体験したこととそれによって得たことしか話せず、なんの統計もなければ裏付けもなく、まして取材や調べ物など一切なしの文章を僕は書き連ねている。あてにするにしろ、あてにしないにしろ、好きにしてほしい。

 僕が卒えた高校は県立の工業高校。時代は、二〇〇〇年四月から二〇〇四年三月。偏差値が高いところだったというわけでは決してなく、卒業生の半分強が就職、その他の半分が専門学校へ、残りの半分の大学進学者のうちほとんどが工業系の大学または学部へと、だいたいこういう進路の分かれ方をした。その特性が故に学校には工業系の学科が五つあり、いってみれば◯◯科が賢い◯◯科が賢くないといった順番はあることにはあり、いる人種も一目瞭然わかりやすかったり。運動部も盛んだった。いくつかは全国大会を狙えるような、OBに有名スポーツ選手もポツリポツリいるような、部活関係なく体育会系の校風。全校生徒約千二百ほどいて、女子はその一割ほど。ヤンキーも多く生息し、僕が在った機械科の場合クラスの三分の二は、真面目君であれ不良君であれ普通君であれ、車・バイクマニアだったりする。二度目の高校一年生をはじめた四月、僕が在籍する機械科の三つのクラスにそれぞれひとりずつ、留年生がいた。無論、他の学科にもいた。だけれども、いわゆる賢い学科、偏差値の一番高い学科にはひとりもおらず、それが下へ行けば行くほど、その存在は増えた。一番下の学科は、クラスはひとつだけだったのだが、留年生も多かったが、中途退学者も多かったらしく(留年が決まった、少年院に行く、妊娠などさまざまな理由で)、すかすかのエアリーな教室であったことは折に見た時印象的だった。そんな学校であったと、まずはここで明記しておく。

 さて、一年生を二度やり僕は卒業したわけだが、その時卒業した留年生は僕ひとりだった。みな、やめていった。これは自慢では決してない。卑下でもないが自虐に近い。卒業こそしたが四年かかったのだから。何度でも言うが、「留年」自体は犯罪ではないし悪いことではない。人生の歩き方はひとそれぞれ。事情もある。でも、なにも事情がないのなら、いや、あるにしても、三年で卒業できるところは三年で卒業する方がいいに決まっているのだ。

 二度目の一年生の四月、そして五月、ここでみな留年生は『ダブり』の被害妄想で教室から去ってゆく。ひとりだけが年上の異分子だ。とてもじゃないが教室なんかにいてられない。二学期に来ない。体育祭の前にまた減り、次に冬、またいなくなる。やり直すのだとせっかく退学をせずにいても、学校に来たり来なかったり、結局ずるずるとなにも変われず、三学期に進級が絶望的になると、やっぱりやめる。

 退学率あるいは卒業率というのか僕には知らないし、そんな答えをはじくにも分母が正確にわからないから数字の出しようがないわけだが、まあ、留年したらみなまずやめる。叩いたデカイ口はいつの間にか萎んでおちょぼになり、不良じゃなかった者が不良になり、不良だった者はそれに磨きをかける。なんであれ働くか、定時制通信制に編入する。おなじ学校にとどまって、また行くんだと決めるほうが稀なことであり、とはいえ卒業までにはなかなか至らず。言うは易し。厳しいものがある。やるは難しだ。

 卒業したので偉そうにひとつ書いてみようと思うのだけれど、出席日数をまずはクリアして、課題だなんだと当たり前にやって、試験で三十点でも取っていれば、単位は取れるのだよ。そういう問題ではないことは重々承知なのだけれど、楽して卒業したいのなら頭を使わなければいかん。偏差値やお勉強の得手不得手なんか関係ない。頭を使わなければ目的は達成できん。まして楽がしたいのなら。自分で勝手に誇大に難しくしたらいかん。困難だと思う。尋常ではい神経をすり減らしていることだろう。感情的にならず、もしなっても、落ち着いたらその時は冷静に。頭を使おう。

 事情はさまざま、一概にもちろん言えない。ただ、僕は、高校を三年で卒業できない不器用な人間、好きだなと思う。普通ではないんだもの。やっぱり、なんか個性的で好きだな、放っておけないなと思う。「退学」だってそれ自体に良いも悪いもない。するにしても、敗北感のある後ろ向きなやめ方はしないでほしいかな。四年かかってでもだ、卒業するのとしないのとでは心臓がやはりちがってくる。三年のものより味わい深いかもしれない。そしたらどうだ、もはや高学歴ともいえるだろう。数式や英検や漢文、親や常識や世間や高卒の資格なんかはどうでもよろしい。 自分の在りたい姿でどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

◯◯さん

 いまさら書くまでもないが、留年し、その学校にとどまり年下とクラスメイトになれば教室は当然に気まずく、人間関係の構築など夢のまた夢。これは、それを経験すればだれしもが抱く素朴な感想だと思う。

 たとえば、もう一度一年生をするとする(僕はこのパターンである)。新入生同士でもすぐには打ち解けられないわけで、しかしながら、同級生のことを、クラスメイトのことを「◯◯さん」と呼ぶ人間は皆無に等しいだろう。みなは、「◯◯くん」からはじまり、早速にシンプルなあだ名がつけられ、次第に苗字で呼び捨ても出来るようになり、ちょっと凝ったようなあだ名がまたつけられたり、最終的には下の名前で呼び捨てをし合うという、たしか友情とかいった、そんなものが級友と級友とのあいだに育まれる。そこに、なかなか留年生は入れない。

 もし、二年生や三年生をふたたびやるのだとしたら、もう出来上がっているクラスに“異物”が混入されるわけだから、もといるみなからの反応は、一年生のそれとはまた一味もふた味も違うと、想像に難くない。けれども、出来上がっているクラスというのは、ネガティブな要素よりもポジティブな要素のほうが上回るのではないかと、僕は考える。もちろん、ひとり年上の人間には疎外感は尋常ではなかろうけれども、すでにクラスのみなのそれぞれのキャラクターが粒立てられていて、みながお互いにお互いのことを知っているわけだから、明るい者が明るい者に背中を押され、新しいクラスメイトに話しかけもするだろうし、みなが高校生活に慣れている。新入生は不安で自分のことで精一杯で人のことなどかまっちゃいられない。二年生、三年生にもなれば、十五歳だった少年が、もう青年になろうとするいい年齢なわけで、この一、二年の差は大きい。それに加えて、そのクラスに結束っぽいものがあるのであれば(毎年クラス替えがあるのであれば話は変わるが)、受け入れは早いはずだ。

 その一方で、そうだからこそ、村八分にされる可能性もあるかもしれない。が、それはそれで助かるなという心理も働くと思う。実際に、それはそれで恩恵があるはず。妙にベタベタされるより、良いというものだ。年上はそうそうナメられるものでもないし、堂々としていれば大丈夫。別に犯罪者でもなければ乞食でないわけで、クラスのだれに迷惑かけるわけでもなし。一年、多く人生やっている分、ちょっとくらい威張っても、まあ高校時代くらい大丈夫。それくらいの気概もあれば素敵だという程度の話。

 いずれにしても、このクラスに自分を受け入れてくださいという姿勢はこちらには当然必要で、素直が一番、それがもっとも話が早い手段だろうことは明白。斜に構えていてもはじまらない。そうしてたいうちは、飽きるまでそうしてたほうがいいぞとは、僕は思うので、特に素直さをススメもしない。そして、斜に構えてろとは言う気もないので、これも忘れずにつけ加えておく。

 

 留年すると、「◯◯くん」とははじまらない。無論「◯◯さん」そして、卒業する時にも「◯◯さん」……かもしれない。

 もし万が一、僕の言っていることとは違うことが起こったら。つまり、いきなり「◯◯くん」から留年生活がはじまったら、「ジャニーズじゃないんだから」と、心の中でツッコむか、相手に直接、一発かましたらいい。もやもやは少し晴れるはずだから。そして、もし、卒業する時に、「さん」が取れて、下の名前で友情よろしく呼び捨てにされたり、ちょっと凝ったあだ名をつけられ愛されたならば、「俺は、あんたみたいな暗い留年生活、高校生にはならなかったぜ」と胸を張り、僕をからかったくれたまえ。

 

 僕の場合、二年生に進級する頃には二文字の名字のイニシャルを冠して「M◯さん」とみなから呼ばれ、三年生に上がってからは、◯が消されてイニシャルだけで「Mさん」。そして、卒業する時には「Mゥ〜」と呼ばれていた。くんとか、さんとか、そんなもの、気づけば簡単にはがれてどこかに落ちていたみたい。あくまで僕の経験した場合の話だ。

 

 

 

 

 

黒い春でも、それは春

 中途半端な屈折、嘘に限りなく近い自殺願望、頭はもちろん良いわけではないが輝かしいほどに悪いわけでもなく、親や教師に、なにかの本で読んだ言葉を振りかざして、ひとりになれば自分の才能はなんだろうか、これなら、あれなら、だけれど、だけれどと、夢みたいなものや、淡い願望はいっちょまえにあったりする。

 青春とは、青くないね。青い、青かった、そういえる人は留年などしていない。すればやっぱりそれは黒い。

 人間、上には上がいる。そして、下にも下がいる。自称青の人も、また自称青の人の前では簡単にその価値観を揺らがせたりして、顔をまさに青くしたり赤くしたりするのだから、十代の色なんてものは、そもそも頼りない、うつりやすい色なのだ。だから、いま黒かろうが茶色かろうが気にすることはない。色があるのだ。ないよりは、もちろんいい。なかったら、これからいやでも色がつく。

 ぼくはもう、十代の人間の気持ちがわからなくなっている。よく、大人はそれを経ているのだから、そういう若者の気持ちがわかって当然で、若者は大人の気持ちがわかるわけがないといったような理屈を耳にするけれど、時代がちがう。十代のみんなのこと、俺はわかってるぜとかぬかす大人がいたらそれはもう信用してはならない。詐欺師でもなかろうが、ただのイタいやつ。大人、あるいは同年代の友人でさえも、だれもだれのことなどわかりっこない。親に理解されたいとか、もうそれはぼくは胸を張って諦観をススメる。諦めなさい。「人生なにごとも諦めてはいけないよ」と同等に、「人生諦めも肝心だ」である。

 ただ、応援されるような人になってほしいと、留年したみんなにはぼくから伝えたい。理解なんかされなくてもいいのだ。でも、だれもだれかを陥れようとか、自分の思うような道に進ませようとか、そんな親類ひいてはヒト、これはなかなかに存在はしないから大丈夫(もし万が一、そういう家で暮らし、抗えないのなら、逃げよう。家出。これしか道はない。家出という行為は素晴らしいよ。自立、自由、自分、『自ら』という言葉はカッコイイ)。応援してもらえるような姿を、見せようとしなくていい、ただ、やりたいことをやりたいようにやる。気がすむまでとことんやる。身の回りで、こんなことだれもやったことないだろうということを、自分がやる。

 新しい高校へ編入するにしろ、残ってまた同じ学年をやるにしろ、四年で卒業するということを掲げてやってみると、案外、卒業するんだなんてことはもう大したことのないミッションになっていて、もう卒業後の進路に対してのウォーミングアップをしたりなんかして、元々の同級生が大学で遊びまくっている最中、自分は留年で鍛え上げた精神でもって卒業後スタートダッシュかまして、茶髪にピアスの恋愛に忙しい彼ら彼女らを追い越しているかも。

  高校を出たところで、大学を出たところで、就職をしたところで、いっちょまえになるわけではないと思う。やりたいことがあって、それに気がついていて、素直にそれをやりはじめる。うまくいかない。恐怖。不安。絶望。でも、まだまだ俺は——。休憩しても、またやりはじめる。と、これがいっちょまえ、ではなかろうか。何百歩目のこと考えて一歩目を出せない人って、これもあまりいないと思う。『いっちょまえ』は『一歩前』の訛りである(たぶん)から、まず一歩だ。

 四月はどうも明るくていけない。虫や動物、どんどん土から出てくる。人間もたかだか生物なら、否が応でもそうなるか。

 未来のことなんてだれにもわからないわけだから、今晩のおかずだってなにかわからなかったりもするのだから、新しいクラス、新しい学校、これも行ってみないことには、どんな色してるかなんてわかりっこないね。

 

 新生活のその不安と希望と孤独はもはや従えてしまって、桃太郎のようにいざ、向かってゆけばいいのではないかしら。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わざわざ見に来るアホもいる

 休憩時間になっても当然話す人もいなければ、話しかけてくる人もいない。そしたらもうイヤホンを耳にねじ込み音楽でも聴くしかない。次の授業までの10分、これが永遠というやつか! と、いいたいほどに長く感じられる。

 ぼくの席は廊下側ではなく反対の一番窓側の列の真ん中あたり(これは実に幸運なことだったと思う)。外に顔を逃がすことができた。こうして静かにひとりで外を観察でもして過ごせばいい、と思っても大した景色もなく、見る物がなにもないとはいえ教室内に視野を展げるだなんてとんでもない。結局に目をつむる。だけれど、やっぱり窓側で良かった。中央列のもし、真ん中あたりだったらと想像したら、それだけで吐き気がする。360度逃げなし。コロッセオの戦士じゃあるまいし。

 あるとき肩をぽんぽんと、気のせいかと思うほどに本当に軽く叩かれて、なんだとやはり思って目を開ければ、クラスメイトのある生徒。ぼくの前にいてなにや用があるといった雰囲気なのだ。ちらと視界の隅に映る周囲の他の生徒もこちらに視線を集中させている。もうこの時点で地獄。見てくんなや。

 彼になにか用かと聞けば、あの、そこ、えっと、すごくいいよどむ。周りはまだ見てくる。ぼくは特段短気というわけでもなかったし、血の気の少ない方だからイライラすることも珍しいのだけれど、いままでに経験したことのないことが起きている。なんや。はよ何の用があるんかいえや。

 「◯◯さんおるかって、二年生が来てますけど」

  廊下を見ればドアの前に顔が二つ、ニタニタとかつてのクラスメイト。

 わざわざ上級生が階段を上って、面会に来てくだすった。仕方なく廊下に向かえば、教室内の視線も横にずれてゆく。すべての眼球に捉えられてやはり逃げ場はなく、ドアを閉めて、会話をすませてドアを開ければ、また見られる。絶世の美女が転入してきてもここまで露骨に見るかというほどに、まあ見られる。当然に、ぼくはすべてを無視する。それしか術がないし、どうすればいいかほかに知らなかった。

 これは始業式の翌日の一時間目終了後のできごと。早速にもほどがあるというものだ。よほど蔑みたかったのだろう。留年なんてほんとうにするもんじゃない。

 

  「みんな心配しとるんでェ。たまには教室遊びに来いやァ」だれが行くんや。

 「お前がたとえダブっても、わしらの絆は変わらんでェ」そもそもねえわ。あったら学校行っとったわ。

 「でも、もうなじんどるじゃん」なじんでないわ。アホが。

 

 嘲笑に対しては、徹底的に無視、あるいは徹底的に封じ込める。できれば封じ込めたいものだけれど、なかなかそうもいかないのが現実であって、学校であれど社会というもの。いかなる状況であれ、理不尽であっても、他者を、または自分を攻撃するなんてことは控えたほうがいいのではなかろうか。自分に必ず返ってくる。

 いいたい奴にはいわせておいてやろう。見たい奴にはいくらでも見せてやろう。だけれども、こちらからわざわざ献上する必要はまったくない! 自分以外の人間がなにをいおうが見ようが自分には関係がないことなので、無視がいい。無関心でいい。逃げていい。逃げきってほしい。仮に関心があって、無視できないのなら、無理して無視したり無関心を装わなくてもちろんいい。そしたら逆に、留年生を弄くり回すヤカラをこちらが見てやろうじゃないか。そして気づいたことはいってやろうじゃないか。そう、こちらが相手を研究すればいい。決して嘲ることなく。学年はもう一度同じかもしれないけれど、同じ一年を過ごすわけでもない。だれかを下に見て安心したい人にはそうさせてあげよう。かわいそうだから。

 ひざを折って、目線の高さをこちらがわが合わせてあげて、やさしく声をかけてやればいい。

 「ところで、自分のことを心配をしたらどうなんだい?」とね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャージの色もちがう

 二度目の高校一年生。

 はじめての体育の授業。

 グラウンドで体操隊形に広がる赤いジャージの中に緑がひとり。

 留年している生徒は上空からヘリで見たって一目瞭然だ。

 

 体育教師はひどく野蛮な人で、生活指導の責任者だという。春だというのにすでに肌は真っ黒、キャタピラみたいな金のネックレスをして、ポロシャツの固そうな襟を立てて、竹刀を持つ。これは2001年の話なのだけれど、当時でさえ、こんな人がまだいるのかと思って、なんでオレはこんな所にと思って落胆した。

 共学とはいえ、ほぼ男子が占める工業高校には持ってこいといった感じのその人は、「おらァ、◯◯! お前センパイなんじゃけェしっかり腕伸ばして手本になれェや!」などと叫ぶ。恥辱とはこのことかと、ぼくはこの晩広辞苑を開いた。

 

 またこのジャージの緑がよりによってなぜだか妙に明るい緑なのだ。発色がいいのは、去年一年間あまり着ていなかったからというのとはおそらく関係がなくて、元々みずみずしいアスパラガスみたいなフレッシュ感がある。

 一方で、みなが着る赤いジャージは、便宜上赤いと形容してるのだけれども、臙脂色、赤茶色、ワインレッド、その辺りの味わいを持つ、いわば渋い色だった。逆だろう! そう思った。ダブりが赤で、みなが緑だろう。

 「腐ったみかん」が云々というのは、昭和の学園ドラマなんかでいわれていたけれど、「腐ったアスパラ」なんか聞いたことがない。そうなったところでだれにも伝染せず、ひとりでしわしわと萎びてゆくだけ。

 教室で学ランを着ていれば一見ぼくもただの高校生だったから体育なんていうのものは地獄の沙汰で、憂鬱なんて騒ぎではない。みなの赤いジャージがまた血の池を連想させた。

 小中、高校の最初までサッカー少年だったぼくは、ゴールキーパーをしていたのだからみなとユニホームの色が自分だけちがうとういうことには慣れていたのだけれど、やはりそれとこれとは話がちがうわけで、精神が慣れるまでの煩悶といったら、そりゃあもう。

 

 果たして、こんな環境に精神が慣れていいのだろうか? 多分、慣れちゃダメだ。ぼくはそう思いながら、早退を繰り返していた。真面目に通うんだとか、やり直すんだとかいった心はまったくに持ち合わせていない。自分の置かれた状況に抗う必要もないのかもしれないが、「だれがアスパラガスや!」なんておどけてまで、みなと打ち解けたいなどとも思わない。言葉を発せずともスベっているのだし、笑われているにちがいない。だって、ひとりだけジャージの色がちがうんだから。

 

 だったら、オレだけちがう存在としてクラスに君臨してやろう。というぐらいの開き直りが、留年には必要である。

 ぼくはそうなれなかったので後世にこうして伝えている。

 恥辱の念はもう消え去ったので、それも手伝っているのかもしれない。