高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

スクールカウンセラー

 悩む生徒はスクールカウンセラーの先生に相談するといいらしい。だれがこんなことを言うのか。無責任極まりない。言論の自由とは、実に尊い。

    この「カウンセリング」という言葉が当時の僕には引っかかる。なにや医療めいたものを感じずにはいらず、自分は十分正常な精神状態であると、その先生のいる部屋へ行くよう電話で何度担任に言われても、行く気になれない。教室には来なくていいから、とにかく学校に来いということらしかったが、門を越えるどころか、僕は学ランの袖に腕を通すことさえ気持ちが悪いので固辞していた。元来、僕は人に相談するということをしない人間なのでこの時も行ったとしてなにになるのか、話すこともないと思っていた。そしてそれをそのまま担任に伝えつづけていたのだが、ある日そのスクールカウンセラーの先生から電話がある。おっさんである。聞き覚えのある喋り方をしたおっさん。聞けば、僕のクラスを受け持つ英語教師のおっさんであった。彼の喋り方は、授業の時より幾らもテンポが遅く、ただ日本語が苦手なだけなのかとも感じたが、きっと、僕の病状に合わせたメトロノームがあるのだと想像した。自分はいよいよ病人なのではと、そんな気分にさせられた。

 それから時々、彼から電話がくる。「どうだ、気分は」お前のせいで良いわけがない。僕は学校のなにが気に入らないかも話さなかった。なにが気に入らないのだろうと改めて考える必要もあってか、別にとか、なにもかもとか、そんなことを言っていた記憶がある。仮に、白衣を着た若く美しい女性の先生であっても僕は同じ態度だったと思う。そんなことで学校に行けるなら、最初から休まず行っている。

 

 もし、君がいま、スクールカウンセラーなる大人に胸の内にあるものを相談しに行こうかどうかを悩んでいるのであれば、どうぞ気軽に行くべきである。それは、もう行きたいということなのだ。でも、でも、でも。でもというのは、それは行きたがっているなによりもの証拠だ。話したいことを話し、話したくないことは話さず、行きたいところに行き、行きたくないところには行かない。これはもう、普通のことだ。自然である。敵はいない。味方もいない。ただ、スクールカウンセラーという仕事を持った人がいるというだけ。勝手に、悪魔や天使にするでない。

 君は病気ではないはずだ。病気と診断されたほうが嬉しいか? 楽になれるか? 都合がいいか? 人それぞれだと、そんなことは僕もわかっている。だから、だれの意見も聞かなくていい。人のアドバイスなど無視して構わない。

 カウンセラーなんかに理解されてたまるかという心で挑めばよろしい。