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高校留年論

19歳で学ランを脱いだ僕から、君に告ぐ

一報届けば休息すべし

留年が決まれば

 留年が正式に決まってしまえば、ある意味でひと段落といえる。留年などしたくはないと回ってきたツケを必死に支払う生徒には申し訳ないが、支払えないのであればそれは当人の怠惰の結果なのであるから自業自得である。進級など許されない。

 しかし、それでも、そんな生徒にも、はなから休学していた生徒にも、原級留置の一報というのはわずかな安らぎをもたらす。なぜか。

 イっちゃったからである。

 もうそうなれば賢者のごとき精神でもって、新しい時間を送るしかないのだ。退学するにしろ、もう一度同じ学年をやるにしろ。前に進むしかない。

 中退とは中途退学のことであって後退のことではない。これを誤解すると人生おかしなことになる。留年とはもう一度同じ学年をやるということであって、もう一度同じ時間を過ごさなければならないということではない。これを誤解すると次元が歪む。むしろパラレルワールドへひとっ飛びしたいと願ってやまない者もいるとは思うが、残念ながらこここそがその世界なのだ。なにごとも諦めるなとかいう精神も大いに結構であるが、諦めも肝心という言葉もあるわけで。

 ルールが下した決定は覆せない。であるなら、次だ。どうする。なにを、いつまでに決めればいい。それまでたくさん考えて考えて考え抜くべし。煮詰まったら手放したほうがいい。その時の感覚でいいのではなかろうか。

「長考に好手なし」将棋界に君臨する言葉だ。留年論にもいえるといえる。

 精神をしごきあげていた日々に終わりが来たなら、まずは休むべきであろう。でないと、すぐにまたしごきあげるなんてのは狂気の沙汰と僕は思う(年齢、体力もあるかもしれないが)。

 考えていない者は考えよう。考えている者は考えないでいよう。その時、心に素直に判断すればよし。

 でもでもと思考の渦を巻いている材料というのは、行く行かないということではなく、案外、どうすれば恥をかかないか? なんてことかもしれない。あるいは、どんな顔して年下と話せばいい? なんてことかも。できない理由ではなく、できる方法を探しているということ。立派なことである。

 一報届けば休息すべし。