タレメーノ・カクの高校留年白書

高校ダブったらこうなるぞ!!

高校を留年していた著名人に

 こんなことをわざわざ調べている暇があるのなら、本を読んだりしていてほしいとも思うのだけれど、これがなかなかどうして勇気をもらう。

 現在国会議員の元俳優氏がそう。高校をダブっている。同じクラスの中学生が互いに殺し合う映画で氏が演じた役も留年している、みなよりひとつ年が上の生徒。

 時折、ネットで炎上したりする某博士さんもそうらしい。

 この両氏、ぼくはかねてより大がいくらもつくほど長いあいだファンである。そんなこと知らねえよという話だろうが、なにがいいたいって、彼らが留年していたなんてことを知ったのは好きになったあとなのだ。なんだよ! オレと同じじゃないか! とね。

 

  著名人、なかでもとりわけミュージシャンに高校中退やそもそも高校に進学していないという方は多いようでそんな情報はたまに見かけたりもする。

 高校留年はどうだろうか。

 ぼくはそれをいちいち調べる趣味を持っていないので偶然知った二名の存在を挙げたにとどまったけれど、そんなにいないはず。

 ちなみに、ぼくの通った高校から軽音楽部に在籍する生徒が組むロックバンドが、在学中にインディーズで全国CDデビューした。地元で有名な存在に成り上がった。そのメンバーの中に留年生が二人いた。顔が見えないほどまぶしかった。

 もちろん、高校卒業後なり大学卒業後なりに身内が口すっぱくいうような「普通の仕事」に就く高校留年経験者もいるだろう。どうなってもいい。留年していようがいまいが、好きな仕事に必ず就ける。筆者も諸先輩方につづきエンターテイメントの世界へ。夢は小さいながらも叶えられた(周知の通り無名である)。

 

 著名人にその職業の性格もあってか非常に心を奪われるわけで、彼らの仕事に触れる機会があるとき、我々は遠慮なく両手いっぱいに勇気をもらえばいい。留年すること、したこと、年下の中に自分が在ること。本人がひとりで抱えるべきだ。自分の人生だ。孤独を愛したらいい。だれかに理解されようなどと思わないことを卒業生であるぼくは勧めたい。理解などされたまるかと踏ん反り返るぐらいでいい。

 オレはひとりじゃないのかもしれない。なんてことを、著名な先輩たちを見て思うことだろう。「留年したって関係がない」ここにたどり着かせてもらえる。

 諸君もつづけばいいのだ。先輩たちに。可能なことだ。ぼくだってできたのだから。

 

 

 

 

 

一報届けば休息すべし

 留年が正式に決まってしまえば、ある意味でひと段落といえる。留年などしたくはないと回ってきたツケを必死に支払う生徒には申し訳ないが、支払えないのであればそれは当人の怠惰の結果なのであるから自業自得である。進級など許されない。

 しかし、それでも、そんな生徒にも、はなから休学していた生徒にも、原級留置の一報というのはわずかな安らぎをもたらす。なぜか。

 イっちゃったからである。

 もうそうなれば賢者のごとき精神でもって、新しい時間を送るしかないのだ。退学するにしろ、もう一度同じ学年をやるにしろ。前に進むしかない。

 中退とは中途退学のことであって後退のことではない。これを誤解すると人生おかしなことになる。留年とはもう一度同じ学年をやるということであって、もう一度同じ時間を過ごさなければならないということではない。これを誤解すると次元が歪む。むしろパラレルワールドへひとっ飛びしたいと願ってやまない者もいるとは思うが、残念ながらこここそがその世界なのだ。なにごとも諦めるなとかいう精神も大いに結構であるが、諦めも肝心という言葉もあるわけで。

 ルールが下した決定は覆せない。であるなら、次だ。どうする。なにを、いつまでに決めればいい。それまでたくさん考えて考えて考え抜くべし。煮詰まったら手放したほうがいい。その時の感覚でいいのではなかろうか。

「長考に好手なし」将棋界に君臨する言葉だ。留年論にもいえるといえる。

 精神をしごきあげていた日々に終わりが来たなら、まずは休むべきであろう。でないと、すぐにまたしごきあげるなんてのは狂気の沙汰と僕は思う(年齢、体力もあるかもしれないが)。

 考えていない者は考えよう。考えている者は考えないでいよう。その時、心に素直に判断すればよし。

 でもでもと思考の渦を巻いている材料というのは、行く行かないということではなく、案外、どうすれば恥をかかないか? なんてことかもしれない。あるいは、どんな顔して年下と話せばいい? なんてことかも。できない理由ではなく、できる方法を探しているということ。立派なことである。

 一報届けば休息すべし。

 

 

 

 

 

 

 

身内

 これはもう大騒ぎ。

 身内から高校留年者あるいは中途退学者なんて人間を出してしまえば末代までの恥だと、若年ホームレスの誕生だと、これぐらいに大人らは考えている。田舎であればそれは顕著のように思うし、東京でもなかなかではなかろうか。これは大学をダブる辞めるという話ではない。高校の話である。

 「高校ぐらい出ないでどうするんだ」

 これはもう、「早く風呂入んなさい」と同じほどいわれる。

 

 親や親戚からすれば、留年自体はおそろしく馬鹿げたものと思っているようではあるものの、卒業すれば構わないというデッドラインもまたあるようなので、留年が決まってしまえば意外とそれについてはいわれない(私立で親に学費を払ってもらっている場合はどうだろうか。想像に難くない)。

 ではなぜ、留年が決まってもいないのにひどく口うるさいのか。

 留年すれば確実に退学するからだ。

 そんなこと、人生の先輩方にはお見通しなのだ。休学や退学を支持してくれる大人など皆無に等しい。いるのであれば、その家族はどんなに素敵なんだろうと想像がもりもり膨らむ。

 ぼくは部活を辞めた時に、「あんた、きっと学校もええ加減になるけえの。しっかりしんさいよ」と母に予言されていた。それは見事に当たった。

 文字通り、「良い加減」になったのだ。

 すぐに登校しなくなり、休学へとことは運んだ。

 

 けれど、祖母からは毎晩のように電話が来るし、母子家庭なものだから叔父が電話口の向こうから腕力をチラつかせてくるしで、包囲網はすぐにできる。

 

 「若かった」ぼくはぼくにそうは決して思わない。

 人をナメ腐っていた心、それは良くはないかもしれない。しかしながら、三十を超えたいまの自分にも同じ感覚は根強くある。いっときの迷いや、過ちや、なんたらかんたらなどというものが理由で学校を休みがちになる人間は結局留年などしない。それは、きっと若さである。健康的なものである。

 

 卒業をしたわけだが、ぼくが高校を留年したという事実など身内の者みな忘れている。親だって、親戚だって、兄弟だって。中学の同級生だって、そういえばといった具合だ。笑い話になっている。なんの恥もない。むしろ話の種になり、意外という印象を持たれたりする(ダブりイコール不良という図式を描く人が世間では圧倒的多数)。

 物理的な悪影響や、損もなにもない。せいぜい親に「あんたの歳じゃったら同級生みんな結婚しとるんじゃないん? 同級生? ひとつ下か? あれ? あの子は同い年? あの子は一個下? あんた何歳なん? ややこしいね」と、ちょっぴり面倒臭いだけだ。

 ぼくはこれまでも書いたし、これからも書くのだろうが、ここでもまた。

 ダブって別にいいことはない。しんどいことしかない。だが、それは学校にいるあいだだけの話。ということも付け加えておこう。

 ダブるべくしてダブった。そんなことを心底から思い感動することはあるかもしれない。そんな感情を抱くことは可能である。

 

 ぼくは、休学も退学も、留年も支持する。

 なにもすべてを肯定するわけでもないが、本人の人生に本人の思考や決意があるのなら、いかなる関係性であれ否定する由はない。人のことなどどうでもよろしい。人のアドバイスに耳を傾けない人は、それはちょっと苦労しそうだけれど、人のいうことばかりに沿って動く人はおもしろくない。

 

 ぼくの年の離れた弟は中卒だ。

 試験の答案用紙に名前を書けば入れるような、点線で書かれたアルファベットを上からなぞれば入れるような、そんな地元の公立高校を彼は中退した。

 その頃ぼくと一緒に暮らしていたら、また少しはちがう結果だったかもしれないが、ちがったらちがったで、なんじゃそりゃと思う。

 弟は、いま学歴で苦労しているらしい。雇用形態や、処遇などなど。

 影響のない職種につけばいいだけなのでは? 兄は思う。そんなに弊害を感じるなら、高卒の資格を取って夜間の大学でも通えば? 簡単に思う。簡単なことなのだ。周知の通り、言うは易しだ。「中卒でもがんばれば云々」そういったのは本人。やるは難しか? 夜飲み歩いたり、ゲームしている時間を勉学に費やすことはそんなに難いか? 幸せは人それぞれだ。彼がそれでいいのなら、兄もまた幸せかもしれない。

 

 善かれと思って人生の先輩方はみな、アドバイスをくれるのだ。感謝するべき。どんな意見にも、人にも。すべてを聞こう。そして、すべて無視すればいい。

 

 

 

 

 

スクールカウンセラー

 悩む生徒はスクールカウンセラーの先生に相談するといいらしい。だれがこんなことを言うのか。無責任極まりない。言論の自由とは、実に尊い。

    この「カウンセリング」という言葉が当時の僕には引っかかる。なにや医療めいたものを感じずにはいらず、自分は十分正常な精神状態であると、その先生のいる部屋へ行くよう電話で何度担任に言われても、行く気になれない。教室には来なくていいから、とにかく学校に来いということらしかったが、門を越えるどころか、僕は学ランの袖に腕を通すことさえ気持ちが悪いので固辞していた。元来、僕は人に相談するということをしない人間なのでこの時も行ったとしてなにになるのか、話すこともないと思っていた。そしてそれをそのまま担任に伝えつづけていたのだが、ある日そのスクールカウンセラーの先生から電話がある。おっさんである。聞き覚えのある喋り方をしたおっさん。聞けば、僕のクラスを受け持つ英語教師のおっさんであった。彼の喋り方は、授業の時より幾らもテンポが遅く、ただ日本語が苦手なだけなのかとも感じたが、きっと、僕の病状に合わせたメトロノームがあるのだと想像した。自分はいよいよ病人なのではと、そんな気分にさせられた。

 それから時々、彼から電話がくる。「どうだ、気分は」お前のせいで良いわけがない。僕は学校のなにが気に入らないかも話さなかった。なにが気に入らないのだろうと改めて考える必要もあってか、別にとか、なにもかもとか、そんなことを言っていた記憶がある。仮に、白衣を着た若く美しい女性の先生であっても僕は同じ態度だったと思う。そんなことで学校に行けるなら、最初から休まず行っている。

 

 もし、君がいま、スクールカウンセラーなる大人に胸の内にあるものを相談しに行こうかどうかを悩んでいるのであれば、どうぞ気軽に行くべきである。それは、もう行きたいということなのだ。でも、でも、でも。でもというのは、それは行きたがっているなによりもの証拠だ。話したいことを話し、話したくないことは話さず、行きたいところに行き、行きたくないところには行かない。これはもう、普通のことだ。自然である。敵はいない。味方もいない。ただ、スクールカウンセラーという仕事を持った人がいるというだけ。勝手に、悪魔や天使にするでない。

 君は病気ではないはずだ。病気と診断されたほうが嬉しいか? 楽になれるか? 都合がいいか? 人それぞれだと、そんなことは僕もわかっている。だから、だれの意見も聞かなくていい。人のアドバイスなど無視して構わない。

 カウンセラーなんかに理解されてたまるかという心で挑めばよろしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

イジメに遭っていたのか、不良だったのか、いずれにしても血生臭い

 とある漫画の話。

 担任教師から留年しそうな不良生徒へ、警鐘を鳴らす場面がある。

 

 

「お前、このままじゃ卒業できんぞ。ただでさえ成績悪いのに身上書にまでキズ付けて、そんなにココ(学校)が好きか、お前? 後輩にクン付けで呼ばれる覚悟はしとるのか?」

「先生よー、ウルトラ警備隊っての? あれは偏差値どんくらいあれば入れるの?」

 

 

 松本大洋さんの『青い春』という作品。美しい漫画であり、格好いい映画にもなった。

 

 ぼくは休学していたのでこの場面を実際には経験していない。電話口の向こうで担任に言われたかもしれないが、担任は女性だったのでこういうことを言われたとは考えにくい。

 当時の担任は、ぼくがイジメに遭っていると思っていると感じられる節があった。それを先生は母に言うわけだ。すると、母がぼくに言うわけだ。

「あんた、イジメにおうとるん? 情けないね、男のくせに。学校行ってやり返してきんさいや、云々」

 ぼくはイジメには遭っていはなかった。そう認識している。だが、担任の言葉によって休学中のぼくは、イジメられていたのかと認識を改めそうにもなりかけた。ぼくがいない教室で、担任はみなに聞いたのかもしれない。そこで何かしらが明るみになったのかもしれない。たしかに、野蛮で陰険なクラスメイトは何人かいて、その存在に心が苛まれることは日々あった。

 ぼくが脳内でツバをかけた彼らがいま、家庭を持ち、ファミリーカーに乗って、社会的地位を得て、地域の人々に信用され生きているとしても、ぼくは会いたくない。そういう奴らはたしかにいたが、奴らにぼくの人生を変えられるだけの影響力はなかったように思う。そうだ、それは絶対にない。

 

 マッチョ信仰のある工業高校だったが故に、もし担任が男であったらば、ぼくは引きずり出されていたかもしれない。ラグビー部にでも入れられて、明日に向かって走らされていたかもしれない。母いわく、担任が女性だから、我が家には父親がいないから。だから、ぼくは甘えて調子に乗っているのだそう。これはチャンチャラおかしい。高校を三年で卒えている人間が言うものとは思えないほどに、理論も叙情もない。

 担任は休学中もよく電話をくれたし、世間話だけをしてくれたりもして、女性らしい丸みを帯びた対応をしてくださったとぼくは感じている。何の落ち度も先生にはない。男ばかりの荒々しい教室で親よりも若い彼女は日々消耗しながらも、気にかけてくれていたのだ。母には物足りないのかもしれないが、彼女は母の担任ではない。

 そして、父親がいたとすると、ぼくにとっては死だったはずだと考えられる。文字通り、死んでも通学しなければならなかっただろうからだ。ぼくはいま生きている。父がいなかったからだ。

 イジメはどこで遭うかわかったものではない。学校だけで起こるものだと認識している親は、ちょっと怖い。

 

『青い春』でウルトラ警備隊に入るための偏差値を知りたがった彼は結局、調子に乗っている友人を学校のトイレの個室内で刺し殺し、その後階段に座り煙草を吸っているところで例の担任が現れ、

「校内で喫煙とは大した根性だ。覚悟はできとるのか?」

「ピース」

 と口にし、二本の指を出す。

 映画版では、煙草のシーンの後、学校に駆けつけた警察に連行される。

 

 ぼくは不良でもなかった。

 不良を“やる”気持ちもわからない。他人からすればサッカー少年という評だったろうか。だけれど、殺人者になった彼の胸の内がひどくわかってしまう。違和感の奴隷になり自分に逆らい学校にいれば、だれかを刺すか、自分を刺すか……そうだったにちがいない。ハンマーを振りかぶった叔父にぼくは殺されそうにもなったわけで。

 留年を前にすると、体から何かしらの液体が必ず漏れる。透明だったり、赤かったり、黄色かったり。溜め込んでも溜め込んでも、最終的になにかは出る。イジメに立ち向かうも、逃げるも、好きにしてほしい。自分の人生、自分のやりたいようにしかできない。という、常套句を書くのもぼくは好きではない。

 相手にするな。いろいろな人間がいて、世界は広い。許せないないなら、許さなくてもいい。狭い島で、小さい人間の相手になるな。海は広いし大きいのだ。あれは嘘でも誇張でもない。自分の島を探して泳ぎたまえ。頭のおかしな人は次第に、自分の目の中には存在しなくなる。認識だ。この世界は自分の認識でできている。泳げなくてもいい。泳ぐことが目的ではないから。合う合わないは程度の差こそあれど、どこに行っても必ずある。大人になったってそうだし、仕事も、会社も、友人関係も、恋愛関係にも、なんにだってある。ただ、世界はひとつじゃないことを知ろうじゃないか。流した汗は嘘をつかないというのは文科省推奨の宗教であって、それを信じられる人はいいものを食べて育ったのだなと思うぼくには、これはどうも照れくさい。だから、こう言おう。

 匂う血生臭さは嘘をつかない。

 イジメに遭っても、人をイジメてはいけない。人に刺されても刺し返してはいけない。人に刺されそうになって、逃げられない時は、その時は刺してしまおう。正当防衛だ。休学、留年だってそうだろう。

 なにが悪い。なにも悪くないじゃないか。

 

 

 

体調の問題

 ぼくの体はいたって健康だった。

 病気や怪我などの治療のために休学を余儀なくされ留年に至ってしまった人からすれば、なんて贅沢な頭の悪い野郎だと思うだろう(これはぼく自身、当時も現在も認めている)。この療養でというパターンは、偏差値の比較的高め乃至は最高レベルの進学校において時折起こると、そう耳にする。そうでない高校でもあるにはあろうが、それまでの暮らしぶり、頭脳と肉体の乖離、想像の域を越えないけれど、なんとなく理由はわかる気がする。

 ぼくはこれに当てはまらない。進学校で留年するという、非常に相容れないこの状況はやはり体験しないと、忖度しかねる。ぼくの体に問題はなかった。

 が、一度目の高校一年の夏に一週間入院をしている。急性胃腸炎だった。無論、人生が変わってしまうほどの病気ではない。夏休みだ。出席日数も関係ない。腹はすっかり良くなった。当時のぼくからすれば、「良くなってしまった」と言う方が精巧である。医者が言うように精神的トラブルがあったように思う。その診断に対して、揶揄するようにぼくを祭り上げた慇懃無礼な母に、とにもかくにも疲弊した。

「いまお前が抱えているものは、病原菌ではないよ、そして、弱さでもないよ」と過去の自分に言ってあげられるのが未来人として持つべきホスピタリティーだろうか。

 入院中、病院を抜け出してブリーチ剤をコンビニで買い、戻ってきた病院のトイレで坊主頭を金色にするのだから、心に問題があったことはあったのだろう。

 退院して、すぐに部活を辞めた。二学期は九月に数回行っただけで、それからは休学届けを出し無断欠席することなくしっかりと家にいた。入院はある意味で引き金を引いたような恰好ではあるものの、決して病気療養のための不登校ではない。学校に行きたくても行けなかった人と、ぼくは違う。であるから、ただのだらしのない奴と思われても仕方がない。それで結構。けれど、だらしがないとは一味違うとぼく自身は思っていた。

 

 「すぐれた魂ほど、大きく悩む」

 

 小説家坂口安吾がそう書き残している。

 のちにこの言葉に出会ったとき、自分の魂がまさかすぐれているとは到底思えなかったが、何故か照れくさいような怪奇かつ素朴な感情を持った。

 

 

志望校であったか否か

 推薦入試で合格した。ぼくはその公立高校へ入学することになる。

 試験は面接と作文。一般入試であったとしても、その高校はぼくにとって不安になるような偏差値を求めてはいないらしかった。進学校ではない。工業高校だ。

 県内にあるすべての工業高校の中でも、そこはその道に進みたい人間にとって最も魅力的なブランド価値があるらしいことは知っていた。自動車メーカーの本社があるその郷里で、そこを卒えればみな就職に困ることはほとんどないようだった。なにせ、県内の工業畑を取り仕切っている多くがその高校のOBだ。高専や工業系の大学に進む者にとっても、そこでの三年間は有利に働くらしい。

 入学前年の地元最大の祭りで、機動隊と衝突し、逮捕、補導された暴走族の中に、その高校の生徒が多くいた。全国ニュースにもなり、彼らのような暮らしに憧憬を見る中学生も、その高校への入学を志望したかもしれない。

 運動部も全般強かった。全国大会常連の部もあれば、それに次ぐレベルにある部も多くあり、部活動が目的で志望した生徒もかなりいた。

 ぼくはといえば、志望校では決してなかった。行きたいと思えたところの受験すらできなかった。成績も、内申も、サッカーの実力も、努力も、すべてが足りず、補えなかっただけだ。だから、ただの身の丈知らずであっただけだと言える。できなかったのではない、しなかったのだ。

 それ以外に行きたいところがあるかといえば、ひとつもなかった。さまざまな理由や、自分が望む条件が重なり、最終的には自分で進学先を決めた。喜び勇んで桜の下を通ったわけではない。しかも、ぼくが行きたかった高校は、ぼくが行かなければならない高校の壁一枚を隔てて隣にある。そんなことある? あったのだ。隣とはよく表現されるだろうが、本当に外壁一枚で隣り合っている。

 希望も、展望も、想像も、夢も、はじめからなかった。春なのに、明日ぼくはどこへ行くのだろうと思っていた。学ランがなんだか借り物みたいで、毎朝自分が自分なのかも疑っていた。隣の元志望校も非常に似通った学ランであるのに。

 

 振り返ってみると、その志望校とやらもいま思えば怪しい臭いがする。本当にそこが良かったのか。なにがどうで、そこでなければならなかったのか。『人間万事塞翁が馬』であるということを知るには、当時のぼくにはもう少し時間が必要だった。

 

 たしかに、ぼくが進んだのは志望校ではなかった。

 

 工業にまるで興味はなかったし、理数系は爬虫類と同等に苦手であるし、現にぼくは工業の仕事に就いたことはない。だが、ぼくはそこに行く必要、卒業する必要が、途中で生まれた。留年は褒めてもらえるようなことではもちろんないけれど、卒業した自分はすごいと思う。いまのぼくは当時のぼくに感謝している。望んで進んだ高校でないからこそ、その後の休学へ繋がったのは因果の種としてまちがいない。ただ、望んで進んだ高校で望み通りの生活が送れるかどうかは、なんの保証もないだろう。人生はどうやら選択の連続らしい。いつもいつも、自分の望み通りにはならないし、どういうわけか不可抗力に首肯しなければならない場面もあったりする。事実はただの事実。あとは、自分の精神だけが頼みの綱だ。

 志望校であったか否かは、留年に関係はない。志望校であったか否かは、その時にはもう過去のことである。意味を持っていない。妙な意味を持たせてもどうだか。 であるから、それはもう忘れるべし。できなければ、行きたかった高校へいまから編入するのが賢明だろう。