ジャージの色もちがう
二度目の高校一年生。
はじめての体育の授業。
グラウンドで体操隊形に広がる赤いジャージの中に緑がひとり。
留年している生徒は上空からヘリで見たって一目瞭然だ。
体育教師はひどく野蛮な人で、生活指導の責任者だという。春だというのにすでに肌は真っ黒、キャタピラみたいな金のネックレスをして、ポロシャツの固そうな襟を立てて、竹刀を持つ。これは2001年の話なのだけれど、当時でさえ、こんな人がまだいるのかと思って、なんでオレはこんな所にと思って落胆した。
共学とはいえ、ほぼ男子が占める工業高校には持ってこいといった感じのその人は、「おらァ、◯◯! お前センパイなんじゃけェしっかり腕伸ばして手本になれェや!」などと叫ぶ。恥辱とはこのことかと、ぼくはこの晩広辞苑を開いた。
またこのジャージの緑がよりによってなぜだか妙に明るい緑なのだ。発色がいいのは、去年一年間あまり着ていなかったからというのとはおそらく関係がなくて、元々みずみずしいアスパラガスみたいなフレッシュ感がある。
一方で、みなが着る赤いジャージは、便宜上赤いと形容してるのだけれども、臙脂色、赤茶色、ワインレッド、その辺りの味わいを持つ、いわば渋い色だった。逆だろう! そう思った。ダブりが赤で、みなが緑だろう。
「腐ったみかん」が云々というのは、昭和の学園ドラマなんかでいわれていたけれど、「腐ったアスパラ」なんか聞いたことがない。そうなったところでだれにも伝染せず、ひとりでしわしわと萎びてゆくだけ。
教室で学ランを着ていれば一見ぼくもただの高校生だったから体育なんていうのものは地獄の沙汰で、憂鬱なんて騒ぎではない。みなの赤いジャージがまた血の池を連想させた。
小中、高校の最初までサッカー少年だったぼくは、ゴールキーパーをしていたのだからみなとユニホームの色が自分だけちがうとういうことには慣れていたのだけれど、やはりそれとこれとは話がちがうわけで、精神が慣れるまでの煩悶といったら、そりゃあもう。
果たして、こんな環境に精神が慣れていいのだろうか? 多分、慣れちゃダメだ。ぼくはそう思いながら、早退を繰り返していた。真面目に通うんだとか、やり直すんだとかいった心はまったくに持ち合わせていない。自分の置かれた状況に抗う必要もないのかもしれないが、「だれがアスパラガスや!」なんておどけてまで、みなと打ち解けたいなどとも思わない。言葉を発せずともスベっているのだし、笑われているにちがいない。だって、ひとりだけジャージの色がちがうんだから。
だったら、オレだけちがう存在としてクラスに君臨してやろう。というぐらいの開き直りが、留年には必要である。
ぼくはそうなれなかったので後世にこうして伝えている。
恥辱の念はもう消え去ったので、それも手伝っているのかもしれない。
視線の矢は全方位から体に
受験して、受かって、志望通りだったかどうかは別として、晴れて高校生になって、新しい制服を着て、ここにいるみんなと、この担任で、これから三年間どんな生活になるかななどと希望に満ち満ちている、はじめての朝のホームルームの中で、「昨日の入学式にいなかったクラスメイトが今日来ています。これでクラス全員揃ったわいや。おい、◯◯君、自己紹介してくれえや。昨日みんな入学式のあとにしとるんよ。君のことは僕からちょっと話しとるけど、本人の口から改めて。はい、ほら、立って」留年していなくったって注目を浴びるシチュエーションなわけだが、想像してほしい。この一秒の長さを。
この人が“ダブり”か。留年している人間を生まれてはじめて彼らは目の当たりにしたのだ。無論僕も生まれてはじめての経験をしている最中だった。想像してほしい。自分の名前一字一字の重さを。ロシア人とかブラジル人のフルネームを言うほうがまだすんなり口から出た気がする。
上から下から舐め回すように見られた。ヤンキーじゃなさそうだなとか、痩せてるんだな、年上だからといってヒゲ濃くはないんだな、弱そうだな、そんな風に見られているんだろうなと自分では思っていて、けれど、こんなことは来る前から容易に予想できたことで、実際に、僕が入学して一度目の一年生の時、僕はクラスメイト同様“ダブり”を観察する側だった。僕が見たはじめての“ダブり”は二人いて、どちらもなんていうか、見た目から怖かった。ひとりは当時でも時代錯誤の剃り込みアイパー。もうひとりはパンク野郎。とても友達にはなれそうもなく、クラスのメイトなんてものにも到底無理。そんな印象。
こんどは自分が留年してまた一年生をやるとなると始業式当日、普段履きなれているアディダスのスーパースターではなく、ドクターマーチンのエイトホールに僕は足を入れている。ナメられないためだった。アディダスは悪くない。ナイキでもコンバースでも、この日は出番はなく、いや、当分なかった。ナイフやピストルを持っているわけでもないから、代わりに少しくたびれたチェリーレッドのブーツがあればまだと思い、現に僕の心身を支えた。学ランには少しやりすぎのようにも感じないこともなかったけれど、ちょっと寄せ付けないオーラを出すには十分効果を発揮したかのように思える。
そして、体育館シューズを手に始業式へと向かう道すがら、クラスメイトは僕の足元に気づきうろたえる。噂話が聞こえてくる。きっと中学が同じだったとか部活が同じだとかで、仲がいいのがすでにいるのだ。気にしない気にしない。むしろ予定通り。
だが、この道中、視線は彼らからだけではない。同じように体育館へと向かう元クラスメイトや元部活の連中に顔を指される。下を向いて歩こう。あまりにもひどい揶揄を受ければ、このドクターマーチンの先端を下腹部にお見舞いしてやればいい。などと、ダサいことを真剣に考えヒリヒリしながら歩いた。
体育館では靴を履き替える。各々、自分の靴はビニール袋に入れ、式中は足元に置いておく。列の中、僕の体育館シューズだけ側面のラインの色がちがう。前後左右、みな赤だ。僕は緑。どこにいても、留年した人間だということがわかる。実に明朗だ。赤だ緑だと、カップうどんでもあるまいし。たぬきでもきつねでもあったらば、年下に化けてどうにか澄ましていられたかもしれないが、たかが人間だ。うつむくしかない。
帰りのホームルームが終わると、僕は逃亡するように教室をあとにした。階段を勢い良く降りるときは、アディダスのほうがよかったなと感じた。駐輪場に行けば、自分の自転車はわかりやすい。貼られてあるシールがひとり緑だ。自分の視線さえもみなと同様になってしまっていた。あ、あれが“ダブり”の自転車。自分のものなのに盗むようにして取り出した。これが、初日のことだった。
小学校中学校と転校の経験は僕にはないのだけれど、まあおそらくはそれとこれとはちがうだろうと思われる。みんなと仲良くなれるかな。◯◯さんと仲良くなれるかな。無論なれない。しばらくは——。
同じ学校にとどまることを決め、そして登校する
留年の当事者の中でも、それぞれに決めた道というのがあると思う。決してみなおなじということはない。退学して働く。退学して働かない。休学をする。定時制や通信制に編入する。同じ学校にとどまる。学校に行くという道を選んだ人は、この春から環境が変わるのだろう。
ぼくは退学して働きながら定時制に入ろうと思っていたのだけれど、結局は同じ学校にとどまることになった。絶対にここを卒業してやるんだといった強固な意志はまったくなかった。
「ただ、なんとなく行ったほうがいい気がする」という直感めいたものがあったのみだ。前にも書いたように、身内や大人たちの中に「そんなにいやなら学校やめれば」という人は一人もいない。「行け」「行かなきゃダメ」当然にこうとしかいわれていなかった。
しかしそれで、「はいわかりました行きます」というような根性を持ち合わせていたのなら最初から留年などしていない。真面目に通っていたはずである。
「なんとなく行ったほうが」という当時抱えた感覚は、筆舌に尽くし難い。
霊能力があるわけでもないが、そういう言葉が脳裏をよぎってしまうほどにこれは理屈ではなかった。大人たちや社会とやらにビビって中退する勇気がなかったのではないか? そんな声も若者からは聞こえてきそうだが、そうではなかったのだ。
一年生を留年したわけだが、この入学時のクラスのままみんなでもう一度といわれれば去っていたと思う。イジメられていたわけではないのだけれどどうにも合わなかった。だから、ちがう、新しいクラスならなどという発想もちっぽけにあった。
いざ行こうにも卒業できるかどうかまでは到底イメージが湧かない。二年生になる想像もできない。出席してまともに試験を受ければ上がらないわけはないだろうが、いつまたやめると考えはじめるかもしれない。でも、なんとなく、今日やめるのはちがう、明日定時制に行くのはちがう。なんとなく、なんとなく。ただその感覚だけを頼りに日々を過ごした。
なにもしなくても日は昇れば沈む。秋にはじまった休学はあっというまにやって来た春によって終わりとなった。
この頃になればもうなにも考えてはいない。無心に近い心境で、考えたところで気分は堕ちてゆく一方だし、なにも策などない。ただ体を学校まで運ぶ。それだけが唯一にして最低最大の焦点だった。
新しいクラスメイトになる年下の同級生の入学式の日、ぼくはスクールカウンセリングルームにいた。再三の登校を促されていたぼくは復学の前日、ようやくにその部屋へと初めて行ったのだった。休学して実に七ヶ月近くが経っている。
自称カウンセラーの英語科教諭は「明日の始業式からまあ気楽にな」といった旨のことをたしかいった。薄気味悪い部屋だった。ルービックキューブがあったり、ジェンガがあったり、心理系の本がいくつも置いてあったりした。児童館のような、あるいはなにかの施設のような、そんな場所。やっぱりオレはここに“通院”する必要はなかったなと、自分の感覚に自信を持てた場所。
しかしだ。自分で決めたとはいえ、逃げ出したい気持ちでいっぱい。そしてその気持ちからも逃げられず袋小路にぽつねんとしていた。かつて在籍したクラスは二年に進級し、自分だけが残る三階の教室の真下に移動する。同い年の上級生らは工具で天井を開け、床を貫き、下からつねに見上げて、のこのこと来ては椅子に座るぼくをのぞき嘲笑する。そんな映像さえも簡単に次第に立体的に思い浮かべるようになっていた。工業高校機械科なのだから、あながちアホな発想ではない。
なぜこんなに苦しい思いまでしていやな学校に復学しなければならないのか。
「なんとなく」という感覚の正体はなんなのか。
さっさと定時制なり通信制に編入して心機一転やり直せばよかったのだ。
そんな思いはしばらく消えることはなかった。
始業式当日、ぼくは遅刻直前のギリギリを見計らって登校する。
一年生の自転車置き場へと向かい自分のクラスの前へたどり着くと、クラスメイトの自転車の後輪の泥除けには略された学校の名前が印字された真新しいシールがほぼ同じ位置にみな貼られてある。発色鋭い真っ赤なシールが端から端までびっしりと並ぶ。しなびた緑色のシールの自転車を持つぼくは、端の数台を中央にそれぞれ少しづつ寄せ、すみませんという念とともに自分のものを差し込んで、音を立てないようひっそりと止めた。泥棒の気分だ。留年するとはこういうことなんだろうと理解して、これから三年間ずっとそうかと絶望した。なにを始業するんだ。オレもその式に出るのか。この期に及んでまだそんなことを思っていた。
ぼくは経験者として、この春新しくなる留年の後輩諸君に気の利いた言葉を贈るべきなのかもしれないけれど、申し訳ない、なにもない。「死にはしない」とか「好きにしてください」といったようなことしか思いつかない。
ただ、「人間万事塞翁が馬」であるということは、後々みなが自分で気づくのだろうと察しがつく。その時はその馬に跨がればいい。どこにでも行けるようになる。
誰かのせいや何かのせいに
留年に至ったことに対し、自業自得ということことは誰にいわれなくとも本人が一番わかっていることと思う。いかなる理由であってもだ。
だが、のっぴきならない事情というのも世の中にはある。それはクラスメイトに話せないことであるかもしれない、あるいは担任に話しても無駄なことであるのかもしれない。中学の地元の同級生に語ったところで、わかるわかる俺だってさ、私だってね……わかるわけはないのだ。抱えなくていい。そんな事情は手放してしまえ。
大人はどうせ、人のせいにするなとか社会に出たらもっとどうとか、へどが出るようなことを平気でいう。彼ら彼女らがいう世間とは、親戚、職場、同窓会、たいがいそれだけの範囲だ。その世間は厳しいらしい。甘くないらしい。どうでもいいことである。
つらくてしんどくて潰れそうになったら、誰かのせいや何かのせいにすればいい。大人は、そんなことでは解決しないという。解決とはなんだ? かくいう大人も、誰かのせいにしては酒を飲んで、太って、特保のお茶を飲んで、禁煙するだしないだ、したから煙がいやだとか飯が美味いだとか、若い頃は痩せていたとかいって汚く騒ぐ。そして、何かのせいにしては阿呆まる出しで不倫する。そう何十年と過ごし、ただ死んでゆく。自分は家を建てた、子育てをした、子供を大学にやった、税金だってたくさん納めたなのになんだこの年金受給額はとかいいながら惨めに。男も女もだ。
人のいうことなんていい加減で、結局自分の価値観を披瀝したいだけなのだから、さらには、それを揺るがされるのが怖いから若者に強く当たっているだけ。自分だって若い時に大人にいわれてはがゆい思いをしたはずなのに、いざ自分が大人になったら、社会に出てわかった、親になってわかったと、同じことをする。みんなと同じような車に乗って、みんなと同じような洋服を着る、そんな人たちのいうことなど、諸君、気にしなくていい。もし、留年が流行ったとしたら、奴らはきっと留年を肯定するだろう。かっこいいじゃんとかいってくるにちがいない。殴ってやれ。黙らせろ。
留年して退学するなり、どこかへ編入するなり、もう一年同じ教室に残るなりは解決などという問題ではない。何から解放される、自分を解放するという問題だ。
「今日の自分」を誰かに反対されても、自信がなくなりそうになっても、“なんとなく気が向く”ところへ行ってほしい。逃げてほしいともいえる。誰かや何かのせいにしてもいい。生命の危機、人生への危険があるのなら、逃げればいい。恥ずかしいことではない。肉体にしろ、精神にしろ、殺されるよりマシである。
僕は高校一年の九月から三月まで逃げた。ただひたすらに書店に入り浸っていた。そして四月、始業の日、年下しかいない教室に入った。それからもしょちゅう逃げた。午後は逃げた。午前中からも逃げた。授業中、トイレに行ってきますといってそのまま逃げたこともあった。逃げることもどうせいつかは飽きる。そしたら、矢印を自分に向けたらいい。行くべき方向が見えてくるから。
おかげさまで僕にはいまでも命があり、世間の広さに日々おどろいている。
高校を留年していた著名人に
こんなことをわざわざ調べている暇があるのなら、本を読んだりしていてほしいとも思うのだけれど、これがなかなかどうして勇気をもらう。
現在国会議員の元俳優氏がそう。高校をダブっている。同じクラスの中学生が互いに殺し合う映画で氏が演じた役も留年している、みなよりひとつ年が上の生徒。
時折、ネットで炎上したりする某博士さんもそうらしい。
この両氏、ぼくはかねてより大がいくらもつくほど長いあいだファンである。そんなこと知らねえよという話だろうが、なにがいいたいって、彼らが留年していたなんてことを知ったのは好きになったあとなのだ。なんだよ! オレと同じじゃないか! とね。
著名人、なかでもとりわけミュージシャンに高校中退やそもそも高校に進学していないという方は多いようでそんな情報はたまに見かけたりもする。
高校留年はどうだろうか。
ぼくはそれをいちいち調べる趣味を持っていないので偶然知った二名の存在を挙げたにとどまったけれど、そんなにいないはず。
ちなみに、ぼくの通った高校から軽音楽部に在籍する生徒が組むロックバンドが、在学中にインディーズで全国CDデビューした。地元で有名な存在に成り上がった。そのメンバーの中に留年生が二人いた。顔が見えないほどまぶしかった。
もちろん、高校卒業後なり大学卒業後なりに身内が口すっぱくいうような「普通の仕事」に就く高校留年経験者もいるだろう。どうなってもいい。留年していようがいまいが、好きな仕事に必ず就ける。筆者も諸先輩方につづきエンターテイメントの世界へ。夢は小さいながらも叶えられた(周知の通り無名である)。
著名人にその職業の性格もあってか非常に心を奪われるわけで、彼らの仕事に触れる機会があるとき、我々は遠慮なく両手いっぱいに勇気をもらえばいい。留年すること、したこと、年下の中に自分が在ること。本人がひとりで抱えるべきだ。自分の人生だ。孤独を愛したらいい。だれかに理解されようなどと思わないことを卒業生であるぼくは勧めたい。理解などされたまるかと踏ん反り返るぐらいでいい。
オレはひとりじゃないのかもしれない。なんてことを、著名な先輩たちを見て思うことだろう。「留年したって関係がない」ここにたどり着かせてもらえる。
諸君もつづけばいいのだ。先輩たちに。可能なことだ。ぼくだってできたのだから。
一報届けば休息すべし
留年が正式に決まってしまえば、ある意味でひと段落といえる。留年などしたくはないと回ってきたツケを必死に支払う生徒には申し訳ないが、支払えないのであればそれは当人の怠惰の結果なのであるから自業自得である。進級など許されない。
しかし、それでも、そんな生徒にも、はなから休学していた生徒にも、原級留置の一報というのはわずかな安らぎをもたらす。なぜか。
イっちゃったからである。
もうそうなれば賢者のごとき精神でもって、新しい時間を送るしかないのだ。退学するにしろ、もう一度同じ学年をやるにしろ。前に進むしかない。
中退とは中途退学のことであって後退のことではない。これを誤解すると人生おかしなことになる。留年とはもう一度同じ学年をやるということであって、もう一度同じ時間を過ごさなければならないということではない。これを誤解すると次元が歪む。むしろパラレルワールドへひとっ飛びしたいと願ってやまない者もいるとは思うが、残念ながらこここそがその世界なのだ。なにごとも諦めるなとかいう精神も大いに結構であるが、諦めも肝心という言葉もあるわけで。
ルールが下した決定は覆せない。であるなら、次だ。どうする。なにを、いつまでに決めればいい。それまでたくさん考えて考えて考え抜くべし。煮詰まったら手放したほうがいい。その時の感覚でいいのではなかろうか。
「長考に好手なし」将棋界に君臨する言葉だ。留年論にもいえるといえる。
精神をしごきあげていた日々に終わりが来たなら、まずは休むべきであろう。でないと、すぐにまたしごきあげるなんてのは狂気の沙汰と僕は思う(年齢、体力もあるかもしれないが)。
考えていない者は考えよう。考えている者は考えないでいよう。その時、心に素直に判断すればよし。
でもでもと思考の渦を巻いている材料というのは、行く行かないということではなく、案外、どうすれば恥をかかないか? なんてことかもしれない。あるいは、どんな顔して年下と話せばいい? なんてことかも。できない理由ではなく、できる方法を探しているということ。立派なことである。
一報届けば休息すべし。
身内
これはもう大騒ぎ。
身内から高校留年者あるいは中途退学者なんて人間を出してしまえば末代までの恥だと、若年ホームレスの誕生だと、これぐらいに大人らは考えている。田舎であればそれは顕著のように思うし、東京でもなかなかではなかろうか。これは大学をダブる辞めるという話ではない。高校の話である。
「高校ぐらい出ないでどうするんだ」
これはもう、「早く風呂入んなさい」と同じほどいわれる。
親や親戚からすれば、留年自体はおそろしく馬鹿げたものと思っているようではあるものの、卒業すれば構わないというデッドラインもまたあるようなので、留年が決まってしまえば意外とそれについてはいわれない(私立で親に学費を払ってもらっている場合はどうだろうか。想像に難くない)。
ではなぜ、留年が決まってもいないのにひどく口うるさいのか。
留年すれば確実に退学するからだ。
そんなこと、人生の先輩方にはお見通しなのだ。休学や退学を支持してくれる大人など皆無に等しい。いるのであれば、その家族はどんなに素敵なんだろうと想像がもりもり膨らむ。
ぼくは部活を辞めた時に、「あんた、きっと学校もええ加減になるけえの。しっかりしんさいよ」と母に予言されていた。それは見事に当たった。
文字通り、「良い加減」になったのだ。
すぐに登校しなくなり、休学へとことは運んだ。
けれど、祖母からは毎晩のように電話が来るし、母子家庭なものだから叔父が電話口の向こうから腕力をチラつかせてくるしで、包囲網はすぐにできる。
「若かった」ぼくはぼくにそうは決して思わない。
人をナメ腐っていた心、それは良くはないかもしれない。しかしながら、三十を超えたいまの自分にも同じ感覚は根強くある。いっときの迷いや、過ちや、なんたらかんたらなどというものが理由で学校を休みがちになる人間は結局留年などしない。それは、きっと若さである。健康的なものである。
卒業をしたわけだが、ぼくが高校を留年したという事実など身内の者みな忘れている。親だって、親戚だって、兄弟だって。中学の同級生だって、そういえばといった具合だ。笑い話になっている。なんの恥もない。むしろ話の種になり、意外という印象を持たれたりする(ダブりイコール不良という図式を描く人が世間では圧倒的多数)。
物理的な悪影響や、損もなにもない。せいぜい親に「あんたの歳じゃったら同級生みんな結婚しとるんじゃないん? 同級生? ひとつ下か? あれ? あの子は同い年? あの子は一個下? あんた何歳なん? ややこしいね」と、ちょっぴり面倒臭いだけだ。
ぼくはこれまでも書いたし、これからも書くのだろうが、ここでもまた。
ダブって別にいいことはない。しんどいことしかない。だが、それは学校にいるあいだだけの話。ということも付け加えておこう。
ダブるべくしてダブった。そんなことを心底から思い感動することはあるかもしれない。そんな感情を抱くことは可能である。
ぼくは、休学も退学も、留年も支持する。
なにもすべてを肯定するわけでもないが、本人の人生に本人の思考や決意があるのなら、いかなる関係性であれ否定する由はない。人のことなどどうでもよろしい。人のアドバイスに耳を傾けない人は、それはちょっと苦労しそうだけれど、人のいうことばかりに沿って動く人はおもしろくない。
ぼくの年の離れた弟は中卒だ。
試験の答案用紙に名前を書けば入れるような、点線で書かれたアルファベットを上からなぞれば入れるような、そんな地元の公立高校を彼は中退した。
その頃ぼくと一緒に暮らしていたら、また少しはちがう結果だったかもしれないが、ちがったらちがったで、なんじゃそりゃと思う。
弟は、いま学歴で苦労しているらしい。雇用形態や、処遇などなど。
影響のない職種につけばいいだけなのでは? 兄は思う。そんなに弊害を感じるなら、高卒の資格を取って夜間の大学でも通えば? 簡単に思う。簡単なことなのだ。周知の通り、言うは易しだ。「中卒でもがんばれば云々」そういったのは本人。やるは難しか? 夜飲み歩いたり、ゲームしている時間を勉学に費やすことはそんなに難いか? 幸せは人それぞれだ。彼がそれでいいのなら、兄もまた幸せかもしれない。
善かれと思って人生の先輩方はみな、アドバイスをくれるのだ。感謝するべき。どんな意見にも、人にも。すべてを聞こう。そして、すべて無視すればいい。